「毎日走った記録(紙)」への記録。
朝、仕事を始める前。私は出勤前のランニングや昨夜のランニング、時には週末のランニングを反芻しながら、その結果を心静かに赤ペンで書いていく。
このA4で白い上質紙の定位置は、職場のデスクの上である。この紙に私は、平成28(2016)年8月7日から始まった毎日のランニングの結果を記録しているのである。
毎日走るようになってから何となく書き始め、最初の頃はメモ程度だったものが、進化とレベルアップを繰り返し、いつの頃からかやめることができない強い依存性を持つアイテムに変貌を遂げていたのだった。もはや、連続ランがやめられないのか、この記録がやめられないのかわからなくなっている(笑)。
文字はかなり小さい。見た目よく、レベルが保たれるように気を配りながら、
①日付
②その日の走行距離の合計
③その月の累計走行距離
④その月の1日平均走行距離
⑤平成28(2016)年8月7日からの累計走行距離
⑥連続ランニングの日数
⑦連続ランニング中の1日平均走行距離
⑧備考
の各項目について、丁寧に丁寧に記入していく。誤記入や計算ミスがないよう、慎重に確認を重ねながらである。特に計算が苦手な私は、平均値を出す場合はもちろんのこと、単なる足し算においても、位が繰り上がる場合など、ほんのわずかでも簡単でない要素があるときは必ず電卓を使ってゆっくりと計算する(笑)。繰り返すが、計算ミスや誤記入は許されない。この、一度狂うとリカバリーが大変であるために一瞬たりとも気が抜けないのがアナログのいいところである。
ひと月に1枚。その月の最後の日の記入が終わると、その月のトータルをエクセルのセルにPCで書き込んでプリントアウト。手書き部分が真っさらになった新しい記入用紙が出来上がる。
月が変わるごとに違う紙に手書きの記録を続ける繰り返しで、今は32枚目となった紙に記録を行っている。
この記録が、実にいい。
数あるランニングアプリケーションもそれぞれ機能的で使いやすいとは思うが、この、いかにもアナログな、手書きを本分とするこの「毎日走った記録」への記入は、僧侶が写経をするかのような、苦労してまとめた起案文書の自分の名前の右端に印鑑を押すかのような、実に厳かな、何とも画竜点睛な気分にさせてくれるのである。皆さんにもぜひお試しいただきたい。
モチベーションが高まる要素や便利な機能も数多い。まず、月の1日平均走行距離を見ながら、月初め、中頃、最終週と、月の走行距離の目標を微調整する。そして、月の1日平均距離は、単純に30倍31倍すると、マラソン中継のゴール予想タイムのように、その月の最終的な走行距離の予測値が導き出せるので便利だ。
累計走行距離は、これまでの積み上げがそのままダイレクトに見える化されているので単純に嬉しい。
そして、最も気持ちを入れて書く「連続ランの日数」。これが最大のモチベーションであり、走る源泉である(笑)。
そして、割る。
累計の1日平均走行距離は、増えたり減ったりを繰り返しながら、わずかずつ、着実にその値を増やしていく。この、わずかずつ積み上がっていく感じが、自分の成長を表しているような気がして(実際には距離が伸びたからといって実力がついたとは一概には言えないとは思うのだが)本当に励みになる。
よしまたがんばろう!
と、記入後にそのようなファイティングな気持ちになるのはもちろん、走っている最中に記録する場面をイメージしながら、もっと、もっと、あと少し、よし今日はこのくらいで十分だろう、などといったストイックな気持ちになれるというメリットもある。
最後の備考欄には、達成した新記録や長い距離を走った場合の行き先、身体の好不調、病気やケガなど、後世に残しておきたい(笑)特筆すべき事項を記入する。振り返った時に参考になる(実はこのブログを書くに際しての資料(データ)集めにも一役買っているのである。)。
さてこの32枚の上質紙。私を依存症にした独特なモチベーション維持装置は、今の私にとって本当に大切な宝物の一つとなってしまった。これがなければ生きていけない(笑)。
この先どうなっていくのか。途絶えるのはランニングが先か、記録が先か。卵が先かニワトリが先か。神か狼か(回文)。
装置の性質上、それを知るのはカミのみなのである。
ランニングコースいろいろ〜白樺湖畔「白樺ぐるりん」コース。
♫白樺〜リゾート〜池の平ホテル♫という長野県内では知らない人がいないテレビコマーシャルで有名な白樺湖。
平成30(2018)年7月29日、蓼科(たてしな)山2,530mを下山した私は、汗で濡れたTシャツもそのままに、靴を履き替えて白樺湖畔を走ることにした。
登山した日も毎日走る。
本日のランは白樺湖で、というわけである。
1周どのくらいあるんだろう? と思いながら、真夏の炎天下、高原の気持ち良い風に助けられつつ走り始めるとすぐに、そこが赤いゴムチップが敷かれた専用のランニングコースであることに気がついた。気持ちいいのでそのままコースに沿ってしばらく走っていると、所々に「残り○○m」という看板が出ている。なるほど。
よく見ると、その○○mと書かれた表示の下の分母の位置に全長3,800mとの表記があった。クルリと1周は、思ったよりも小ぢんまりしたサイズであることがわかった。意外とお手軽だな白樺湖ちゃん。さて何周走ってやろうか(笑)。
その白樺湖がある長野県の蓼科高原。標高が1,000mを超えている(1,416m)ため、準高地トレーニングができる場所として位置づけられている。この白樺湖畔を1周するランニングコースは「白樺ぐるりん」という。管理する茅野市の市民公募で名付けられた。
全体的にアップダウンは少ないので、終始気持ち良く走ることができる。ケガもしにくそうである。
ちなみに我が母校の駒澤大学は、標高657mの野尻湖畔で合宿を行っている。先日、大学専用宿泊施設「駒澤大学野尻寮」の管理人S塚さんとお会いする機会があり、S塚さんが私の父と仕事の付き合いのある人で、私のことを小さい頃から知っていてくださったということを知った。世の中は狭くできている。
白樺湖畔には、冒頭でCMソングを紹介した「池の平ホテル」や、遊園地「池の平ファミリーランド」、そして「世界の影絵・きり絵・ガラス・オルゴール美術館」や「蓼科テディベア美術館」などがあり、絵的に飽きない。まるでお花見団子のようである(3色のピンクは春、白は冬、緑は夏を表しており、秋がない)(笑)。
戦国時代、北信濃攻略を目指した武田軍の通り道だったこの辺り。国道152号線が通る大門峠を越えて、川中島の合戦に臨んでいたであろう武田信玄が休息したという御座岩の碑が、白樺湖の西側、ボート乗り場の脇に湖面に突き出すようなところにあって、走る際のポイントになる。
車で走ってもこの辺りは上ったり下ったり、これでもかというほどいくつもの山を根気よく越えなければ上田や別所温泉、諏訪湖の諏訪地方、北アルプスを背にした松本地方に出ることができない。今ほど道が整っていない時代に、よく迷わずに大量の軍勢や兵糧を進めていたなぁ、と感心することしきりである。
白樺湖をグルリと1周3.8kmを3周と少し、12kmを気持ち良く走り終え、車で帰路に就いた私。上田を通って長野市内を目指す予定であったが、黒曜石で有名な長和町の和田地区をちょっと通ってみようと道を逸れたばっかりに、和田峠を越えて諏訪湖方面、斜めに引き返して霧ヶ峰から勢いでそのまま山を下ってしまい、何と松本市内に出てしまったのであった(笑)。
戦国時代であれば、完全に大将失格である。
信濃の国を、なめてはいけない。
登山でトレーニング〜蓼科山
気軽に登れる日本百名山ということで人気があるが、そもそもそんな気軽に登れる山にそれほどの魅力があるのだろうか、という素朴な疑問が湧いてくる。その疑問を解決するため、私は平成30(2018)年7月29日に長野市内にある実家から車で3時間ほどかけて登山口までやってきたのであった。
蓼科山は、「蓼科」と書く。
間違えないようにしたい(笑)。
ということらしい。
なるほど。つまり、「立科町」を表すときだけ「立科」を使い、その他全ては山だろうが高原だろうが豚だろうがネギだろうが美人だろうが(笑)、「蓼科」を使う、と覚えればいい。
「蓼科美人」、いい感じだ。
ここでクレバーな読者諸氏は、
と思っているであろうと思う。
本当にそうだろうか。本当にそうなのであろうか。申し訳ないがそこまで調べるのは面倒なので、この話はここで終わりとさせていただきたい(笑)。
さてその東京都清瀬市立科山荘。東京都清瀬市に我が家がある関係で、我が愚息たちは、二人とも小学校時代にそこに宿泊する移動教室(昔風に言うと高原学校)を経験している。そして何とその移動教室のプログラムで「蓼科山登山を経験している」のである。
さて、話を蓼科山の魅力というところに戻そう。いろいろな解説に「山頂からは、360度のパノラマ展望が楽しめる。」とある。
が、
その山頂。
行ってみると、何と何と、はやぶさ2が着陸に成功した小惑星 「リュウグウ」と瓜二つなのである(行ったことないけど・笑)。そしてその見渡せる表面積の大きいこと。野球のグランドが一面余裕で取れそうな見事な両翼95mなのである。
しかしそこでは野球は絶対にできない。なぜならそこが全面、ガラガラとした大きめの岩が積み上がってできているからである。バウンドがイレギュラーするだけでなく、ボールが岩と岩の隙間に落ちてしまったら二度と拾えなくなるほど隙間が深いからである(笑)。
野球のグランドを優に超えるスペースでそこが山頂なので「360度の視界の全てが岩」という状態。確かに360度のパノラマ展望ではあるが、それを楽しむには、ちょっと手前の岩が視界に入りすぎるのである。
と私は結論づけた。
4回目の42.195km〜第1回松本マラソン
第1回松本マラソン。
私はこの記念すべき大会に、高校時代の同級生に背中を押されてエントリーしたのであった。「(松本マラソンを)走る人も、走らない人も、年に一度くらいは集まってお話ししましょうよ。」
松本在住で洋菓子教室の先生をしているM奈子ちゃんが音頭を取ってくれ、松本FMでアナウンサーをしているI保ちゃん始め松本在住の同級生や、県内在住の同級生が打ち上げをセットしてくれるというので、私は大親友Y口(以下、大親友という。)や、サードA木、M本院長とともに平成29(2017)年10月1日、美しい城下町を走ることとなった。
走る4人は皆、長野市内からの日帰りである。始発である6時9分発の特急しなの号にそれぞれ乗り込む。満員御礼なので車内の移動はままならない。そのくせちゃっかり車掌が回ってきて特急券を持っていない人(私w)に1,180円の特急券を押し売りして回るのである。こんな日くらいいいじゃないか、という気持ちが込み上げてはくるのだが、いや、こんな日だからこそしっかり回収するのか。と、納得。
長野〜松本間は、JR篠ノ井線で結ばれており、各駅停車で約1時間半、特急で約1時間の距離感である。長野市内から松本市内に通学する高校生が多い。松本長野間を通勤する県職員は、ほとんどの人が高速バスを使うと聞いている。
JRは片道で1,140円、往復で2,280円のところ、信州往復きっぷという長野松本間の往復切符だと810円お得な1,470円で買うことができる。3割5分5厘引きである。プロ野球だったら首位打者が獲れそうだ(笑)。
松本駅を降りると、駅前からシャトルバスがガンガン出ていて、スタート会場の松本市総合体育館までノンストレスで運んでいってもらえる。これは、長野マラソンと同じ運営母体が蓄積したノウハウを惜しげもなく投入しているんだろうなぁという感じがしてホッとする。
記念撮影をして、トイレに行って、さあスタート。総合体育館から松本市内の中心部までの緩やかな下りを、道を埋め尽くしたランナーたちがあっという間に速いペースとなって大移動をしていく。
そして松本市中心部。
松本城のお堀の東側を駆け抜ける。
「松本城はチョコっとしか見えず、しかも一瞬で過ぎ去ってしまう。」
もう一度言う。
「松本城はチョコっとしか見えず、しかも一瞬で過ぎ去ってしまう。」
しかし私は、しっかりとそのチョコっとしか見えない松本城の写真を撮ることに成功したのだった。
というか、せめてお城の周りをぐるっと周るというような、松本を楽しめるような設定にしてほしいものである。実にもったいない。
退屈なコースを黙々と走り、快調なペース。半年前の長野マラソンで、暑さ故の両脚痙攣という失敗経験を生かしてこまめに水分補給もしている。暑さも、晴天で気温が上がってはいるものの、何とか20℃程度で収まっている。
30kmまでは順調だった。しかし、35kmの折り返し以降、脚が上がらなくなる。この道、折り返し前は気がつかなかったが、実は登りだったのである。思うように脚が前に出ない。苦しい。キツい。ゴールはまだか。
結局、Jリーグ松本山雅の本拠地アルウィンや、松本空港に沿ってカクカクとクランクするゴール前の道では、精と根を振り絞ってひたすら前に進むことだけを考えて走るという、全く楽しくない時間帯となってしまった。
そしてゴール前も失速したまま加速できずにカッチョ悪いままゴール。競技場の外で待っていてくれたM奈子ちゃんにカッコいいところは見せられずに終わった。
カッコ良かったのはレース中盤。ゲストランナーとして走っていた松本山雅の現役Jリーガー2人を相次いで抜かした、という場面。まあ、着実に力は着いているのである。
「エーリック!」
彼の視線の先にはジャージ姿にリュックを背負ってスラリとした黒人男性。ドバイなど海外勤務が多かっ大親友が、こんなところでもビジネスの知人に会うのか、と私は思っていた。
しかし、その考えは、大親友にされた耳打ちによって霧消する。
「エリック・ワイナイナだよ!」
さてここで、エリック・ワイナイナ選手について簡単に触れておこう。
「エリック・ワイナイナは、ケニアのマラソン選手。コニカ(現:コニカミノルタ)の酒井監督に見出され、1993年に来日し同部へ所属。1994年の北海道マラソンで初マラソン初優勝。1996年アトランタ五輪では、ケニア代表として見事に銅メダルを獲得。さらに2000年シドニー五輪では銀メダル、2004年アテネ五輪では7位入賞と、五輪2大会連続でメダル・3大会連続で入賞している。ウルトラマラソン1回を含んだマラソン優勝8回を誇り、そのうち長野マラソンで2000年と2003年の2回優勝している。」
とまあ、スンゴい選手なのである。
そのスンゴい選手が、松本のコンビニに居たのである(笑)。
大親友は、皇居ランなどで彼を見る機会が多かったため、一瞬で判別できたという。コンビニの外でエリックを待つ。遠くにチョコっとしか見えない松本城よりも、近くで大きく見える世界的ランナーの方がずっといい(笑)。大親友よありがとう。出てきたエリックは、人懐っこい笑顔で快く記念撮影に応じてくれた。
自分が教えているランナーが何人か松本マラソンを走ったので、サポートに来たのだという。話すととてもいいヤツ、ナイスガイであった。日本語も上手い。しかし書くのはローマ字である。
「Arigato gozaimasu!!」
ワニかゴジラか、といった感じである(笑)。
「Kore de OK!!」
「マラソンで4時間を切るにはどうすればいいでしょうか?」
世界のマラソンランナー、エリック・ワイナイナの答えは明快だった。
「走った後、2本でも3本でもいいから必ずダッシュを入れること大事ね。」
「毎日同じことをしていてはダメね。」
「腹筋も大事。腹筋もやった方がいいね。」
翌日から、この教えを愚直に遂行した私。その後すぐに革命的とも言える成長を遂げ、サブフォーに向けて間違いなくその階段を1段、いや2段登ったのであった。
グロスタイム4時間14分53秒
ネットタイム(参考)4時間10分06秒
登山でトレーニング〜常念岳と蝶ヶ岳
常念岳は標高2,857m。北アルプス飛騨山脈の南北に複数ある山脈のうち、長野県側にある常念山脈の主峰であり、日本百名山の一つ。山の全てが長野県内にある。蝶ヶ岳は標高2,677m。常念岳の南、常念山脈の稜線上にあり、こちらも山全体が長野県に属する。
中学校時代の集団登山を除いて北アルプス初挑戦だった唐松岳を、思いのほか順調かつ快適に踏破してから、私は北アルプスに対してかなり前のめりになっていた。あの稜線の美しさ、別世界を旅しているかのような隔世感。いずれも頭に刻まれたまま離れることがない。
「あの稜線をいつまでも歩いていたい!」
という症候群に冒され(笑)、ついにその病に導かれるままわずか10日後の平成28(2016)年8月21日、再び北アルプスに足を踏み入れることになったのである。
その病状に拍車をかけたのが、私を北アルプスに導いた満月酒り場で出会ったH田師匠。SNSにアップされた美しい稜線の写真と「常念岳〜蝶ヶ岳12時間の山行」というテキストに完全に打ちのめされ、「あの稜線をいつまでも歩く」ことを決めたのであった。
そしてその稜線は、実際に歩いてみると、思い描いていたこととは別の理由で「いつまでも歩いていたい」と思わざるを得なくなるのであったが、この時はまだそんな展開になるとは夢にも思わなかった(笑)。
三股登山口から登り、常念岳から蝶ヶ岳、そして三股登山口に下りて三角形を描く。コースタイムはしめて14時間30分である。そこを経験豊富なH田師匠が12時間。何とかがんばれば師匠と同じタイムで踏破できるだろうという計画で、朝まだ暗いうちから登り始める。
常念岳は、三股登山口から登るのが一番早いが、このルートは急登に次ぐ急登で、「初心者はご遠慮ください」という看板が出ているほどである。しかし、飽きないことが救いだ。
標高約2,400 mから上、森林限界を越える高山帯が、ライチョウの生息地として有名で、ライチョウ生息の研究がなされているポイントでもある。ガラガラと積み重なった岩々とハイマツが一面に広がる斜面に、霧がスーっと通過していく。ライチョウに出会えればラッキーである。
晴天の日は、天敵から身を守るためにハイマツから出てこないと言われているライチョウ。この日は幸いにも雲が多く、常に霧が流れている天候。
いた。
2羽だ。つがいだ。
いや、3羽だ。親子だ。
ライチョウは、野山の野鳥と違って人を恐れることがないのでかなり近づいてもシラーっとしている(笑)。特別天然記念物なので捕まえられないという人間のルールを知ってか知らずか(笑)、余裕綽々でヨチヨチと歩き回るので愛嬌があって実にかわいい。
ラッキー、ラッキー、ラッキッキ!
気分上々でガラガラとした岩山をよじ登っていくと、前常念岳と呼ばれる2,661mのピークに到達する。視界ゼロ(笑)。それもそのはず、この日は、二つの台風10号と11号が、太平洋上を不規則に動いており、日本にいつ上陸してもおかしくないという状況であった。
そんな霧の中、前常念岳の辺りから山ガール2人(以降「山ガールズ」と呼ぶw)と話をしながら進むようになった。常念岳山頂まではあと1時間を切っているはずなので、山ガールズに追いついた私は無理に追い越して行くことはせず、ポツリポツリ会話をしながら歩いていった。
そこに、私よりもやや若い男性2人組も加わって、霧で真っ白な稜線上での会話は弾んだ。
「今日は(常念岳の)山頂からどういうルートで?」
「蝶で!」
「蝶で!」
「私も蝶ヶ岳で!」
何と5人とも、蝶ヶ岳を回るルートを目指していることが判明。皆、かなりの健脚である。
「そうですよね、台風が二つも来てる日にこんなところ(常念岳)に来てるわけだから、フツーの人じゃないですよね(笑)」
そう。フツーではなかった。
男性2人は、登山道の整備をしながら登っているとのことで、どこかの団体に属しているのか全くのボランティアなのか、はたまたそれが職業なのかわからない。
「しばらくここで作業しますからー。」
と、登山道脇のガラガラとした岩々を降りていってしまった。
「うわーっ!」
「うわーっ!」
もう、うわーっ!という言葉しか出てこない(笑)。
そんな山ガールズたちもまた、フツーの人たちではなかった。彼女たちは、岐阜から高速道路を交替しながら夜通し運転し、登山口で少し休憩してから登り始めたと言い、スゴい体力だと思ったら2人ともフルマラソンを走る人であった。
山で、速いペースで進む人は、かなりの確率でフルマラソンのフィニッシャーである。
走り過ぎてケガをしてしまったこと、そこから徐々に回復して練習量を増やしてきたこと、名古屋ウィメンズマラソンの素晴らしいこと、大阪国際女子マラソンに出れたら最高だということ、などなど、話は尽きることがない。
特に「バンちゃん」と呼ばれていた山ガールとは、一本道の稜線をかなり長い時間2人で歩いてお話をさせていただいたのであった。
そして蝶ヶ岳に到着。美しい蝶ヶ岳の斜面に広がる蝶のような模様が目に焼きつく。追いついたり、離れたり、また現れたライチョウの写真を一緒に撮影したりと、山ガールズたちと私は、北アルプスの稜線を存分に楽しんでいた。
ここで下山を急がなければならない事情が発生した私は、蝶ヶ岳ヒュッテで休憩している山ガールズに別れを告げる。
「バンちゃーん! この人、カエラハルってーっ!」
離れたところで水を汲んでいたバンちゃん、さようなら。また会えたら会いましょう。
時間がない。
私は「えー? なになにー?」というバンちゃんの声を背に、振り向きもせず下山を始めたのであった。
こんな感じで山ガールと楽しく会話をしながら美しい稜線を歩くことは、またいつでもできるだろうと軽く考えていた。しかし、それも大きな間違いであった。
それがいかに稀有なことなのか、私はこの先の2年半で思い知ることになる(笑)。連絡先を、いやせめて名前だけでも聞いておくべきだった。
人生最大の「後悔先に立たず」である。
It is no use crying over spilt milk.
覆水盆に返らず。
この失敗は、2度と繰り返してはならない。
ランニングコースいろいろ〜飯綱高原スキー場コース
脚力を鍛えるには、いわゆる峠走が効果的であると言われている。たっぷり上って、たっぷり下る。古くから長野市民のファミリー向けレジャーポイントとして君臨してきた飯綱高原スキー場を往復する、脚と心肺への負荷満点のこのコース。
小学生の頃、両親にスキーに連れてきてもらった「遠い遠い山の奥(笑)」に、自分の脚で到達するという、夢のような、何とも言えない感慨に耽ることができ、やりきった感満載で気持ちが満たされることも、大きな要素なのである。
飯綱高原スキー場は、平成10(1998)年の長野オリンピックで、モーグルとエアリアルの会場となったところである。第1リフトから第5リフトまでと小ぢんまりとしたゲレンデながら、緩やかで長いコースからコブコブのゲレンデまでバラエティに富んでいる。
長野市内とこの飯綱高原スキー場は、かつて戸隠バードラインという有料道路1本で結ばれており、それは長野市民を飯綱高原に運ぶピストン役を担った大動脈であった。しかし、昭和60(1985)年7月26日に発生した地附山地すべり災害によって寸断され、上松から大峰山までの区間が不通となり、現在に至っている。
この日、大学生だった私は長野市内にある東和田運動公園テニスコートでテニスを楽しんでいた。地附山からもうもうと上がる大量の土煙りと、その周囲を飛び回るヘリコプターといった、その時見た普通ではない感じを今も忘れることができない。
彼が残した数々の伝説的なエピソードの一つ。練習が終わった後、「ちょっとランニングに行ってくる。」言って走り去り、翌日にどこまで行ってきたか後輩に聞かれ、「大座法師池までだよ。」と、涼しい顔で答えたという。
「化け物だ。」
素直にそう思った(笑)。
大座法師池といえば、飯綱高原のメインスポットである。とんでもない離れ業、まさに化け物である。
そのモノノケの視点を曲がりなりにも掴むことができた、そんな満足感もこのコースを走るモチベーションになっている。
戸隠バードラインが分断された後、長野市内から飯綱高原に行くには主に善光寺裏から登る「七曲りコース」と長野高校裏の浅川を遡上する「浅川ループライン」のどちらかを選択する。後者は長野オリンピックに伴ってループ橋が整備されて車の流れが多くなっている。途中に、ボブスレー・リュージュ会場となったスパイラルがある。
七曲りコースは、スノーシェッドに覆われた8つのヘアピンカーブ(数えました(笑))が狭くて危険。ランニングにはお勧めできない。代わりに浅川畑山地区を経由して七曲りを登り切った大峰山に出るルートがお勧めである。
ここから飯綱高原スキー場までは約1km。第1ゲレンデから第3ゲレンデまで車道を横移動し、「浅川ループライン」を使って帰るのがお勧め。ぐるぐるぐるぐる、高速で下り走の筋力をガッチリ鍛えるのである。
スパイラルから浅川ループ橋の間にある集落、中曽根地区に「とがの木茶屋」という、手作りのおやきを売る小さな店がある。そこのおばあちゃんには、いつも褒められ、励まされてラストの下りのエネルギーにしている。おやきも美味いが草餅などの餡子も、疲れた身体に染み渡って実に美味い。
初めての参加〜第38回朝陽地区健康マラソン大会
そしてなんといっても朝陽地区で有名なのは、プロ野球北海道日本ハムファイターズの金子千尋(弌大)投手が朝陽小学校の卒業生であるということ。出身の新潟県三条市から、小学校4年生の時に父親の仕事の関係で5区の石渡(いしわた)に越してきて、そこで少年野球をし、進学した長野商業高校を甲子園に導いた。
彼は、母校朝陽小学校のために、プロで1勝するごとにグランドに少しずつ芝生を寄贈しており、今は北側4分の1ほどが緑の芝生で覆われている。
実は小学校時代に少年野球をしていた私。野球の世界でも立派な金子投手の先輩なのである(笑)。
その芝生で、キャッチボールをしたのは、私が長野に逆単身赴任してきた平成26(2014)年の9月2日の朝であった。地元銀行の支店長をしていた小学校・高校の同級生T野くんが帰長してきた私を歓迎する意味で付き合ってくれたのだった。彼も小学校時代に少年野球をしており、私とはチームメイト。実に40年ぶりのキャッチボールであり、感慨深いものがあった。チームメイトというのはどんなスポーツでもありがたい存在である。
秋が深まる文化の日。第38回朝陽地区健康マラソン大会が行われた平成28(2016)年11月3日は、澄んだ空気がキリリと冷える爽やかな朝だった。高校同級生のラン仲間の間でヘッドコーチ的な存在N本氏がやはり同じ朝陽小学校出身ということで、毎年参加している。彼は優勝候補の一人だ。
アップの仕方、コースの特徴、などの教えを請う。男女とも、AコースとBコースに別れており、長い方のAコースが6kmである。
参加人数は、全員で200名ほどか。
スタートすると、N本氏を含む数人のトップ集団が猛スピードで朝陽小学校のグランドから一般道へ出て、颯爽と駆け抜けていく。そして少年野球のチーム全員かと思われる大集団が続く。何とかそれについて行く。ついて行こうとするが、その速いこと速いこと。1キロ4分少々といった感じで記憶している。
ジリジリと後退。同じように後退する選手たちと、縦長になりながら必死で走る。ペースも何もあったものではない。ただただがむしゃらに走った。
そのうち、前方を走る少年野球の選手たちの集団が捉えられる位置まで迫ってきた。一人、また一人と抜いていく。こちらのペースが落ち着き始めても、彼らの位置が私の前から後ろに移っていく流れは変わらない。
あと2キロ、あと1キロ、と、ゴールが迫ってくる。野球少年はあと何人残っているんだろう。息が苦しく、必死に空気を肺に入れながらがんばる。
校舎が見えてくる。
グランドに入る。
そしてゴール。
結果は10位。
満足のいく素晴らしい結果だった。これまで2回のフルマラソンを走り抜いたスタミナと経験はやはり大きかった。自分の走りに初めて自信が持てた日だった。
10位までが入賞とのことで、表彰式に出た。賞状をもらった。人生初の、ランニングでもらった賞状である。素直に嬉しかった。
数か月後に発行された朝陽地区公民館の広報紙にも名前が出た。もう後には引けない(笑)。
表彰式で分かったことだが、私の前にゴールした9人のうち、少年野球の選手はわずかに2人。
40歳以上も歳の離れたおじさんランナーは、ほとんどの少年野球選手を抜き去ったことになる。
野球の先輩としての面目も、何とか保つことができたのだった。