なぜ私は毎日走っているのか。フルマラソン・サブ4(サブフォー)への道

50歳を過ぎた普通のサラリーマンが、ある出来事をきっかけに毎日走り続けるそのモチベーションの数々。

登山でトレーニング〜雨飾山

期待値という言葉がある。
あまり高いと、実際目の当たりにした時の感動が薄くなってしまうという話。
統計学上の難しい話は置いておいて、まずは、高校同級生のM院長のSNSプロフィール写真がとてもいい感じでずっと羨ましいなと思っていた私のことから。その写真。雨飾山(あまかざりやま)の山頂標の横で北アルプスの白馬方面をスッと見据えている後ろ姿。背中で語る男、という感じがとてもいい。
山頂標に書いてあった雨飾山という山は、どうやら日本百名山らしいということで、私は登るチャンスをずっと窺ってはいたのである。
そして平成30(2018)年6月3日、私は雨飾山を目指し、晴天を祈りながらM院長プロフィールのようないい感じの写真をゲットするため、実家がある長野市内を、朝まだ明けきらない5時前に車で出発したのであった。
 
雨飾山は、その位置がビミョーなところにある。長野県の小谷村と新潟県糸魚川市の県境にある日本百名山で、標高は1,963m。妙高戸隠連山国立公園に属している。妙高山火打山といった新潟県のいわゆる頸城の山々と、北アルプス白馬の山々のちょうど中間点で、妙高方面と白馬方面からの両方からのアプローチが可能であるのだが、妙高方面からのルートは、車の通行が真夏のわずかな時期のみということで、私はいったん西の白馬村に出てから日本海方面に進んでまたそこから東に戻るような形で登山口の雨飾高原キャンプ場にやってきた。
すでにかなり山深い。秘境といった雰囲気である。このキャンプ場に来るまでも、車でかなり山奥深く入ってきた印象である。とはいえ、秘境が秘境たる所以のいかにも秘境ですといったこれといった珍かなるものはない。
ビミョーな感じの山奥であった。
そもそも雨飾山という名前。「山頂に祭壇を祭り雨乞い祈願をしたことが由来」と、ネット検索の結果もなんだかビミョーな感じである。
登り始めて1時間。まだこの時期は残雪が大きな雪渓を作っていて美しい。足を取られないように慎重に進む。初めて気がついたことだったが、雪渓の上にピンク色のラインが所々ついているのは、どうやら登山道のルートを示しているものであるらしかった。木の枝からぶら下がっているあのピンクのリボンと同じ、と覚えることにした。
そして見上げると青い空と山頂と思しき切り立った峰のコントラストが美しい。後で知ったのだが、この巨大な白い岩壁には「布団菱」という名前が付いていたようで、そういう意識で見ることができなかったのは残念だった。というか、その山肌から何か特別なものを感じることができなかったということか。それを堪能するには紅葉の季節がいいのかもしれない。
そして陸上の400mトラックの第1コーナーを曲がってバックストレートに入るような感じで、山頂に向かって尾根づたいに歩く。笹で覆われている美しい平原。そこを抜けて、程なく山頂に到着した。
事前の情報でアピール度の高かった360℃の眺望は、左から焼山、火打山(妙高、黒姫は判別できず)、高妻山北アルプス連峰から白馬三山といったパノラマであり、素晴らしかった。が、どの方向もインパクト不足といった感じは否めなかったのである。
雨飾山の標高がさほど高くないからなのか、ポジションがどこからも中間点に当たるからなのか、その辺りの理由はよくわからない。
 
兎にも角にも山頂で、記念写真を撮った。撮影は、途中から一緒だった数少ない同道の登山者にお願いをした。私も、M院長のように北アルプスの方を向き、男の背中を見せてみた。
「ありがとうございます!」
私は、お礼を言いながら、登ってきた笹平の登山道を一生懸命撮影している女性が気になっていた。何を撮っているんだろう。ライチョウでもいるんだろうか。
聞くと(これは聞かずにはいられない(笑))、そこに「雨飾りの乙女」がいるのだという。どういうことか。山頂から笹平を見下ろすと、歩いてきた登山道によって描かれた線が美しい女性の横顔に見えるのであった。
 
「雨飾りの乙女」
 
何という可憐な名前だろう。
そして、何という美しいラインだろう。見下ろすとそこには本当に美しい乙女の横顔が風に髪をなびかせるかのように浮かび上がっていたのであった。
私は心から感動した。まさに、雨飾りの乙女にハートを射抜かれてしまったのであった。
 
期待値ゼロからの感動が、これほどまでに衝撃的であるということにも打ちのめされた(笑)。別の季節に、また会いに来てみたいという衝動が湧き上がったのは言うまでもない。
 
定番のランチをした後に下山。登山口のキャンプ場から雨飾高原露天風呂まで移動し、そこからまたキャンプ場まで靴を履き替えてランニングで往復。日差しはもう夏のそれであり、汗だくになった私は、ブナ林に囲まれた風情ある源泉かけ流しの露天風呂で汗を流し、「猫の耳」と呼ばれる2つの山頂を持つ雨飾山を後にした。

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期待値は、低ければ低いほど感動が大きい。

初めてのコスチューム走〜第16回小布施見にマラソン

小布施見にマラソンは、コスチュームランが楽しめる全国でもトップクラスの大会である。
ベストコスチューム賞の審査委員長を務め、第1回から大会を盛り上げているのが大河ドラマ「いだてん」のマラソン指導で有名な金哲彦氏ということで、小布施見にマラソン「金ちゃんの仮装大賞」(笑)とも呼ばれている(らしい(笑))。
平成30(2018)年7月15日。そんなふうなことで全国的にも有名なハーフマラソン大会に、私は3年ぶり2回目の参加をしたのであった。
 
しかも仮装して(笑)。
 
大会当日の1週間前、これまでも度々登場している私の大親友Y口君から私あてに連絡があった。
「何年か前に着ていたM宙(私のこと)の学ランて、まだ取ってあったりする?」
答えは「イエス」であった。
そして、その学ランを身に付けて走れるかという質問にも、私は迷わず「OK!」と答えていたのであった(笑)。
大親友は、元応援団長。彼はその応援団長のコスチュームで走るという(笑)。マジか(笑)。というか、その衣装、まだ取ってあったのか(笑)。
設定としては、「走る応援団と応援する学生」である。マニアックな説明をするならば「応援団とそれをサポートする生徒会常任幹事(学ラン着用)という長野県長野高等学校の往時の応援風景」なのであった(笑)。
当日、またしても我々長野高校36回生は集結した。N本君やM院長、Y川君、M角(ずみ)君、M沢さん、Mポラン、そしてサプライズ登場だったA川君の面々。元々陽気で面白いことが大好きな彼らをして、
「大丈夫なの? それ(笑)」
と失笑せしめたこのコスチューム。
問題は、生きるか死ぬかの大問題だった。
それは、小布施見にマラソンが真夏に行われる大会であるということだった。暑さ対策でスタート時間が朝の6時にセットされ、初めのうちは気持ちのよい長野の空気の中を走れるのだが、ゴールする頃は真夏の日差しが容赦なく降り注ぐ過酷な暑さとの戦いとなる、実にハードな大会なのである。
その、ただでさえ苦しい条件の中、さらなる負荷をかけて走ろうというのだから、ウケを狙うのにも程がある(笑)。
それでも大親友も私も、普段からしっかりとした走り込みができているという自負があったため、さほど(周囲が心配するほど(笑うほどw))気にしてはいなかった。
 
「大丈夫だろ。」
 
一応、下半身は黒の短パンという最低限の暑さ対策はとりつつ、私はゆっくりとスタートをした。しかし、大親友は、柔道着に袴という、暑さ対策のしようがない現役さながら(そのまま)の姿で走るのみであった(笑)。大丈夫か。
コスチュームを身に纏うと人と人のふれあいがますます楽しくなる。大親友と私は、走り始めてすぐに周囲から注がれる好奇の視線と失笑をエネルギーに変換し、テンションをどんどん上げていくのであった(笑)。
 
「いいぞ! 学生さん!(笑)」
 
周囲から励ましの声が飛ぶ。楽しい。
当初は単に学生服が珍しいというだけであったため、2人は「コンセプトを明確にしよう」という名の下に、ランナーたちのナンバーカードに書かれた「私は◯◯から来ました」という自己アピールを頼りに行き交うランナーたちに声をかけ、話をしつつ、最終的には周囲を巻き込んでそのランナーを「応援」し始めたのであった(笑)。
 
「フレーっ! フレーっ! ◯◯さん!」
 
声を張り上げ、手拍子をする。
これがまた楽しくて、2人はどんどん調子に乗っていくのであった(笑)。
そして、程なくして大親友Y口君の口数が少なくなっていった。
 
「気持ち悪い」
 
そこで彼は、こんなときのために常日頃から携行しているドーピング3点セットを活用して、この難局を乗り切るのであった。ここで、彼が愛用しているドーピング3点セット(あくまで彼独自の呼び方である念のため(笑))について紹介しておきたい(ちなみに私はこれまで1度も薬物の世話になったことがないのでわからない)。
 
・痙攣対策→「芍薬甘草湯(ツムラ68)」
・胃痛対策→「ガスター10(水なしで飲めるタイプ)」
※これは普通の胃薬でも良い。
・痛み対策→「ロキソニン
※膝、股関節、足首などの痛みに効く。
 
「これを御守り代わりに持って走ります。」とは、取材に答えてくれた彼の弁である。飲まないまでも、準備をして本番に臨むという姿勢は大事であるし、彼曰く「本当に速攻で効く」とのことらしいので、私も次の大会では準備をしてみようかと考えている。
 
そして、気持ち悪い状態から脱出した大親友と私は、後半戦に突入。再びランナーを捕まえての勝手な応援を繰り返し、時にディープに話し込んだりしながら快調に飛ばし(別な意味でも飛ばし(笑))ていったのであった。
が、しかし、そんな我々に次なる難題が降り注ぐのであった。これは、我々だけでなく、全てのランナーたちに共通の難題であった。
猛暑の夏である。スタートの午前6時ですでに23.8℃だった気温がグングンと上昇し、30℃を超えた時点で「走行中止」となってしまったのである。ランナーたちは、原則歩いてのゴールとなってしまい、マラソン大会なのに「走ってはいけません」という、学校の廊下のような(笑)、単なる夏の我慢大会のような、何とも不完全燃焼な感じになってしまったのである。
それでもゴールはゴール。よくがんばりましたと、皆、お互いを讃え合った。
 
悪いことばかりではなかった。
おかげで恒例のアイスクリームはしっかりゲットすることができて優雅に食べながら歩く。見上げるとそこには熱気球(抽選でラスト1枠を引き当てた高校同級生N本君親子が乗っていたらしい)。優雅だ。
おかげでスーパーマリオブラザーズのコスチュームに身を包んだ母娘と仲良しになり、写真を撮ったり撮られたりしながら楽しくゴール。悪くない。
おかげで前回沿道でその姿を拝見することができなかった、前小布施町立図書館館長であり会社OBである先輩S氏としっかり会話をすることができた。平成最後の町議会議員選挙での健闘を祈ります。
そして、ベストコスチューム賞の審査委員長である金哲彦さんと遭遇。彼は我々の出で立ちを見て驚きを隠せない様子であった。
「これでホントに走ってきたんですか?」
「あ、はい。ホントです(笑)」
「これは一体なんなんですか?」
「高校時代の応援団のスタイルです。2人とも
当時のものをそのまま着用しています。」
「そんな(貴重な)もの、よく取ってありましたね!」
「そこですか!!(笑)」
プロのランニングコーチ金哲彦さんの我々への称賛は、そんな走りとは関係のないところに注がれたのであった。
 
グロスタイム2時間40分8秒
ネットタイム(参考)2時間37分14秒

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コスチュームを身に纏うと人と人のふれあいがますます楽しくなる

献血できない身体。

私は、献血が大好きである。
なぜか。
お菓子が食べ放題で、飲み物も飲み放題。ホットもアイスもチョイスできて、猫舌用にぬる目の設定までできる。場所によってはハーゲンダッツ等のアイスクリームまでいただける。それでいてお金は全くかからない。無料でそれほどまでに優遇される場面は人生でほかに見当たらない。ただただ嬉しい。ワクワクが止まらなくなってしまうのである。大人なのに(笑)。
そして、カウンターにいる受付の事務職員の皆様はじめ、素敵な魅力の看護師さん、可愛らしい看護師さんや、診察のドクターまでもが皆ホスピタリティに溢れまくっている。つまり、「神様扱い」をしてもらえるのである。そこも、かなり嬉しい。
こんなことを言うと「普段、どんな扱いを受けながら生きているんだよお前は!」というツッコミを受けそうなのでこれ以上説明するのは正直ためらわれるが、敢えて言おう。この厚遇、かーなーりー、嬉しい(笑)。
そんなわけで、単純な私はウキウキと舞い上がりながら毎回気持ち良くなり、とってもハッピーな気分でせっせと献血に通っているのだった。
 
献血には、全血献血成分献血がある。全血献血には400mL献血と200mL献血があり、成分献血には血小板成分献血血漿成分献血がある。成分献血は、成分採血装置を使って血小板や血漿といった特定の成分だけを採血し、体内で回復に時間のかかる赤血球を再び体内に戻すという方法。身体への負担も軽く、多くの血漿や血小板を献血できるメリットがあるが、時間がかかるために、献血時間の予約をしなければならない場合が多く、忙しい(忙しくしている)私のライフスタイルには合わないので、私は専ら全血献血をしている。しかもしっかり400mLである。
 
そんな楽しい私の献血生活に、ある日突然、楽しくない事件が起こった。それは、平成29(2017)年8月16日に28回目の献血を行って以来、再び献血が可能となる12週間後に、献血をしようとした時に起こった。
 
「はい、残念ながら、今回は、お休みしてください。ご協力、ありがとうございました。」
 
え、え、え、どゆこと?
俺、健康だよね?
超がつくほど健康だよね?
何? 何? 何? どゆこと?
 
自分で自分に何が起こっているのか、すぐには理解できず、かなり混乱した私であった。
献血をするためには、その人が献血をしても大丈夫なのかどうか、献血に耐え得るに十分な体力と体調を維持できているかが重要であり、それを、献血の直前に採血によって行われるチェック、つまり、献血をするための試験にパスする必要があるのだった。そこで私は、その試験に、見事に「不合格だった」のである。
どんなチェックか。まず、血圧。そして脈拍。これらはどうやら大丈夫だったようである。そして、ヘモグロビン濃度を判別するための血色素量の測定をするのだが、ここで、あえなく落第、ということのようであった。
400mL献血の場合、男性では、1dL中に血色素量が13.0g以上ないといけないらしい。そういう決まりのようなのである。いくら本人が、
「大丈夫です! 僕はいたって健康ですから、大丈夫です! 400mL血を採ってください! もし何かあってもそれは僕の責任ですから! お願いします!」
と頼み込んでも、決まりは曲げられない。
「次回、体調のいい時にお願いします。」
となってしまうのである。
せっかく献血ルームまで出向いていったのに、ジュースを飲んだだけで帰らなければならないという、この何とも言えない敗北感。これはこたえた。辛かった。
簡単に言うと、貧血である。
説明を聞くと、長距離ランナーは、貧血になりやすいのだそう。珍しくはないとのことであった。しかしそう言われてみても、自覚症状が全くないので戸惑いは果てしなく大きい。
そのことは、ネットなどで見てみると既に当たり前の話のようで、ランナーたちはそれぞれ鉄分のサプリメントを飲むなどして対策を立てているらしい。
そして私は、栄養摂取や睡眠時間を増やすなど、多少のにわかケアをしつつ、100円ショップで買った鉄のサプリも飲みながら、数か月後に再チャレンジをしたのであった。
が、結果はまたしても不合格。
むむむ、手強い。
実際、この頃は、第1回松本マラソンの後で、あのエリック・ワイナイナ氏からの教えを愚直に守って走行距離が飛躍的に伸びた時期であった。その結果、私は「献血ができない身体」になってしまったようなのである。
このままこのランニング生活を続けていくのであれば、以後もずっと献血ができない状態が続くことが濃厚である。大好きな献血ができない。あの、神がかり的なホスピタリティを味わうことができない。何とも寂しい限りである。私はどんどん暗〜〜い気持ちになっていった。
しかしそこで、パッと光が差すような出来事が起こる。それは、採血検査を担当してくれた可愛らしい看護師S藤さん(仮名)が私に掛けてくれた一言だった。
 
「いいトレーニングが出来てる証拠ですよ。」
 
何という素晴らしい言葉なんだろう。最高のペップトークである。後ろ向きな考えから前向きな考えに、ネガティブシンキングからポジティブシンキングへ、この時、私の気持ちは大きな大きな大転換を迎えたのであった。言葉一つで人の心がここまで大きく変えられてしまうという、人生において初の実体験であった。何と素晴らしいコーチングであろうか。
ありがとうS藤さん。本当にありがとう。
S藤さんのおかげで、私はこれからもがんばっていけそうです!
 
そしてその後、平成31(2019)年1月14日。年末年始で走行距離が減ったということもあり、私は不合格となってから実に3回目の再チャレンジで、無事に29回目の献血をすることができたのであった。
 

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ランナーにとって献血ルームのハードルは意外と高い


登山でトレーニング〜大峰山、地附山

長野市街地の北。善光寺の裏手にある地附山(じづきやま)は、標高733mの典型的な里山である。トレッキングコースが整備されており、市民の誰もが登れる手軽な山となっている。

昭和の高度成長期にはロープウェイがあって、到達する山頂エリアにある動物園や遊園地、観光リフトなどに親子連れが集まり、一大レジャーランドとして賑わっていたが、今はその跡形が廃墟としてわずかに残るだけである。
このエリアは、基本的に人に会うことはない。とにかくうら寂しいのである。心細くなってくるのである。そして、わずかな確率で人に会えば、そこには必ずと言っていいほど会話が生まれる(笑)。
 

地附山の登山口にある駒形嶽駒弓(こまがたけこまゆみ)神社は、昭和60(1985)年の地附山大地滑りでも「滑り落ちなかった」ことで有名である。頑丈な岩盤上に建立されているからなのだが、それ以来、「絶対にスベらない神様」として受験生に絶大な人気があるらしい(笑)。

そしてこの神社、善光寺創建(7世紀後半)よりも古い歴史をもつという。善光寺本堂の真北にあり、神仏習合善光寺奥の院なんだとか。善光寺信仰をよく知る関西の信者の間では如来さんの奥の院」と呼ばれて常識らしいので心しておきたい。

地附山は、小1時間で山頂に到達する小ぢんまりした山であるが、いくつかある登山道によっては傾斜がきつく、なかなか脚に負荷がかかるハードな行程を味わうこともできる。トレイルランの練習をしている人に幾度となく遭遇したこともある。

途中の「ビューポイント」では、東に広がる長野盆地が一望でき、その先にある志賀高原の山々を端から端まで見渡すこともできてかなり気持ちがいい。山頂からの眺めは、北に広がる飯綱高原の山々であり、この地附山が上信越高原国立公園の入り口に位置しているということがよく分かる。

山頂付近の「ヤッホーポイント」という看板の前で、飯縄山に向かって「ヤッホーっ!」と叫んでみる。コダマが返ってくる。調子に乗って何度も叫ぶ。結構気持ちがいいので何度も叫んでいると、我々世代はいつ間にやら「ファイトーっ!」「いっぱーつ!」と叫んでしまっているのである(笑)。リポビタンDのコマーシャルは偉大だった。よろしくファイト一発。というか、ファイトはそもそも一発二発と数えられるものなのであろうか(笑)。という疑問はさておき、リポDゴッコに付き合ってくれた高校の同級生K割君ありがとう(笑))。2人で持ち寄った自慢の肴でチビチビとウイスキーを煽った「山頂プチ宴会」は、なんとも言えない恍惚感だったね(笑)。
ほかにも前方後円墳があったり、長野市営のスキー場跡があったり、戦国時代に武田信玄が作ったという桝形城跡があったりと、地附山はなかなかに飽きない山ではあるのである。
長野市営スキー場は、私が在学していた頃の長野市立東部中学校の生徒手帳にその記述があった。
「生徒だけでスキー場に行くことは禁止する。(※ただし、地附山スキー場は除く。)」
えーっ! 地附山にスキー場なんてあるんだ! という驚きのみが私を含めた我々世代の持つこのスキー場との接点の全てであったと思う。なぜなら当時は既にモータリゼーションの波が一般家庭にも広がっており、戸隠バードラインの開通もあって、スキー場といえば飯綱高原スキー場か戸隠村営スキー場と相場が決まってしまっていたからである。逆に、少し前の世代が生徒だけだけでこのスキー場にどうやって来ていたのかがゲレンデ跡地を見ながら頭に渦巻くのであった。
 
そして地附山の北西すぐのところにあるのが大峰山(おおみねやま)である。大峰山は、標高828m。山頂に大峰城がある。
大峰城は、その地理的な特性から戦国時代の川中島合戦の物見砦として重要な意味を持っていた。そのため、時期によって武田方、上杉方それぞれの支配下となった歴史がある。
現在ある天守閣は、昭和37(1962)年に、私の父が大工棟梁を務めた建築共同企業体(JV)によって建てられたものであり(マジ)、かつて「チョウと自然の博物館」として活用され、山頂からの眺望を楽しむこともできたのだが、いつの間にか閉館となり、今は長野市役所の庁舎の一部(会議室等)としてしか使われておらず、寂しい限りである。
 
大峰山登山口は、善光寺の裏、いわゆる桜坂を登ったところにある雲上殿の裏にある。そこから歩いて15分ほどのところにある「謙信物見の岩」は、実に素晴らしい。そのワイドな眺望、特に夜景の素晴らしさもあって、かつては長野高校や長野西高校の生徒たちの格好の溜まり場として君臨していたのだった。
それはロッククライミングの練習場として活用されている切り立った岩場の上に、さらに円錐形の岩が突き刺さっているかのように立っており、その上の半畳ほどのスペースによじ登ることもできる。高所恐怖症の人はダメかもしれない。や、高所恐怖症の人でなくても、ここに登ると股間が「キュっ」とする(笑)。
 
この辺りのハイキングコースは、東京を始めとした長野以外から長野に着任してきた企業のビジネスマンを案内するのにも適している。善光寺から川中島合戦、昭和の高度成長期などを、空撮で捉えるかのように体感してもらうことができるからである。その効果のほどは、感激のリアクションが分かりやすかった着任間もないS經新聞のM支局長で実証済みである(笑)。
 
物見の岩から先、地附山と大峰山の中間点にある道標が最高に素晴らしいという話をしたい。
大峰山〜地附山」と白字で描かれたこの茶色のプレートは、『遥かなる日本アルプス』という雑誌(笑)のグラビアページから抜け出してきたかのような、アルプスの尾根の人だかりの中心にポツンと立っているかのような、都会的で洗練されたハイレベルでポッピーなデザインが施されており、このようなうら寂しいところにあるのがもったいないほどに一人輝きを放っているのである。訪れる機会のある方は、この道標のチェックを努努(ゆめゆめ)落とすことのないようにしてほしい。
 
今、地附山と大峰山は、時代を映す鏡として、別な意味での一大アミューズメントスポットとして、そのうら寂しさを前面に押し出しつつ、存在感をアピールしているのである。

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基本的に人に会うことがない大峰山〜地附山エリア

4回目の本番〜第20回長野マラソン

ラソンには、グロスタイムネットタイムという2種類の記録がある。
まずはグロスタイム。これは、「よーい、ドン!」と、スタートの号砲(ピストル)が鳴ってからフィニッシュするまでのタイム。
市民マラソンの場合は、スタートが長蛇の列となるため、後ろにいる人ほど号砲が鳴ってからスタートラインに到達するまでに大きなロスタイムが生じる。つまり、スタートが後方になればなるほど不利ということになる。
次にネットタイム。これはスタートラインを出た時からフィニッシュするまでのタイム。走るのに要した本当(正味)のタイムということになるので、スタートラインからどれだけ後方にいようと関係はない。
しかし、大会運営上の問題(最終順位がつけられないなど)等があって、グロスタイムネットタイムかどっちがどうなのということになると、公式の記録としては、あくまでもグロスタイムなのである。
ここが、ミソ。
 
平成30(2018)年4月15日、第20回の記念大会となった長野マラソンに参加した。フルマラソンへの挑戦は、これが5回目となる。
これまで4回のチャレンジで、4時間切りのいわゆるサブフォーを目指したにもかかわらず、ことごとく失敗を繰り返してきた私。理由はそれぞれの大会ごとの条件によって、それぞれ別のものであるようにも見えるが、私はこの大会への挑戦に向けて、一つの答えを出していた。
それは、圧倒的な走力の積み上げが足りていなかったということである。つまり走力不足。言うなれば練習不足である。で、今回は十分な走り込みができたから大丈夫! と思うのであるが、考えると、それは毎年そう思って走り始めるのであったのだったそういえばということになる(笑)。
「今年は違うぞ!」
と、正直思ったが、いやいやそれが慢心の元でそれが敗因の一つじゃないかと自戒の言葉を自分に投げかける。
そんなことよりも、今年はちょっと嗜好を変えて、今までできていなかったことを実現させてみた。それは、ランニングの師匠の一人である、我が二男が所属していた中学硬式野球清瀬ポニーの親父仲間の一人S水さんと一緒に走るということだった。
埼玉県在住の公務員である経験豊富なS水さんは、以前から長野マラソンに出場したいしたいと言っていたのだが、そのエントリーのハードルの高さなどもあって、なかなか実現できずにいた。しかし今回は、私が慣れた2回目のお友達エントリーを成功させ、実現に至ったのである。
S水さんはかつて、子どもたちの野球の試合や練習の時などに、私を誘ってグランドの周りをランニングしてくれていたのであった。「丹田に力を入れ、真下に落とす感じ」という、S水さんの指導でその時会得した走法は、今だに私の中で大きく基礎を形成しているものである。今思うとそれは、設楽、大迫両選手の日本新記録で今話題の厚底靴で必要と言われている「トップフット走法」の原型なんじゃないかとも思えてくる(笑)。
そのS水さんは、長野マラソンのスタートエリアまで徒歩3分(笑)の我が実家に泊まり、前日の受付からスタート、ゴール、打ち上げ(笑)まで、私と行動を共にしてくれることになった。
いつものように、前日受付で高校の同級生と記念撮影をし、健闘を誓い合う。そして得意にしている親戚の久利多食堂に、「久利多食堂オリジナルTシャツ」を取りに行く。
いつもと同じ。毎回同じ準備は順調に進んだ。S水さんとの会話で、いつもよりリラックスして臨めていたかもしれない。
そして翌日。
スタート前からぐずついた空模様で、小雨が降り続いている状態だった。私は、友人たちのアドバイスどおり、ビニールカッパを着て、かつ、靴が濡れないように、靴を履いたままビニールの買い物袋をさらに履いて号砲を待った。
スタート。
ランナーたちは、思い思いの雨具を身にまとって走り始める。100均のカッパがいちばん多いか。ビニールのゴミ袋に上手く穴を開けて被っている人も割と多かった。
気温は15℃。暑くなく寒くもない。そして小雨の湿気が、呼吸を楽にしてくれているかのように心地よい。しかもスタート地点からゴール地点までを結ぶ直線に沿った北北東の追い風がゆるやかに吹いている状況。走り始めて10kmほどでこれはもしかしてと思い始め、そして20km手前の緩くて長い登り坂五輪大橋をゆるい追い風に乗って走り切った時に、それは確信に変わった。
 
最高のコンディションじゃん!
 
気をつけるのは、水溜りで靴を濡らさないようにということただそれだけであった。前日や翌日、「雨で大変そうだねー」とか「雨で大変だったねー」とか言って、実際の現場を知らずに机上の空論を投げかけてくる人の何と多かったことか(NHK「チコちゃんに笑われる」風・笑)。ランナーにとって、実は最高のコンディションだったのである。
五輪大橋では、同じTシャツを着た人から初めて声をかけてもらい、少し会話(お互いの久利多食堂との関わりについて確認(笑))をしながら走ることができてビックリした。このオリジナルTシャツを着て走っている人は、何だかんだで20人近くいるらしい。「久利多食堂〜がんばれ〜〜っ!」と意外とたくさんの人たちから声を掛けてもらえるこのオリジナルTシャツ。そんなに出回っていたのか(笑)。
しかし、やはり20kmを過ぎるとだんだん脚が重くなってくるのはいつものとおり(苦笑)。22km付近の折り返し地点で、先を行くS水さんからすれ違いざまに「マチューさん、がんばってーっ!」と声をかけてもらっても満足な切り返しができない、ペースアップもままならない、と、そんな状態にやはり陥っていた私。
しかし、何とか粘り切り、ラスト2キロを全力疾走すれば目標のサブフォー(4時間切り)というところまで来ることができたのであった。そしてそこで思考能力をほぼなくしている私の脳は、遮二無二ラスト2キロを走り切る、ということを選択することはなかった。
 
そのまま4時間を2分ほどオーバーしてゴール。
ゴール後、S田浩美さんや店主のA木さん、H野智世さんら、仲良くさせていただいているch.books(チャンネルブックス)の皆さんが恒例にしている「フィニッシャーズタオル記念撮影」に混ぜていただき感無量(T_T)。
「目標達成は、次のチャンスまでのお楽しみだ!」
と、何だか素直に喜べた。もう1年、サブフォーを目指してがんばる時間がプレゼントされたのである。残念というよりむしろホッとした気分だったかもしれない。人間の、現状維持装置が発動したのかな、と感じた。
ラスト数キロでガクッと来るスローダウンが今回は起こらなかった。走り込みと、自然に積み重なった走力の為せる業だと思った。最終的に5,304位(5km通過時)から3,295位(ゴール時)に上げたことも嬉しかった。計算上、2,009人を追い抜いたことになる。大したものだ。
そしてネットタイムでは4時間を下回ること3分36秒。それが実際の私の正味のタイムである。条件付ではあるが、サブフォー達成だ。やった。嬉しい。グロスではないので、何だか静かに喜びを噛み締める(笑)。
そしてレース結果を聞かれて答える私の台詞も、答えるごとにブラッシュアップされてどんどん簡潔になっていくのであった。
 
「私の気分は「半分、青い。」(NHK連続テレビ小説)。」
 
グロスタイム4時間02分11秒
ネットタイム(参考)3時間56分24秒

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S水さんらと楽しむ久利多食堂チームの打ち上げ

ランニングコースいろいろ〜牟礼駅からのダウンヒルコース

岩本能史(のぶみ)というランニングコーチがいる。
平成21(2009)年、陸上経験ゼロでヘビースモーカーだった女性アイちゃんをわずか9か月でフルマラソン3時間13分を出すほどに成長させた『非常識マラソンメソッド』(ソフトバンク新書)で一躍脚光浴びた彼が、『型破り マラソン攻略法』(朝日新書)でその指南法をまとめた「非常識」なメソッドの数々は、10年たった今、ほぼ「常識」となりつつある。
市民ランナーのための市民ランナー目線での攻略法の数々。200kmを超えるウルトラマラソンの現役ランナーでもある彼の経験に裏打ちされたそれらのメソッドは、我々市民ランナーに大きな勇気と納得のいく結果を与えてくれるのである。
 
・マラソンは、食べるスポーツである。
(食べることにフォーカスされたのは意外にもここ10年くらいの出来事)
 
・カーボローディングは無理に行わない。
(本番直前3日間に炭水化物を強制的に摂取するカーボローディングは意外と総合的な効果に欠ける)
 
・「峠走」で速くなる。
(上りと下りでマラソンに必要な筋肉を鍛え、同時に心肺機能も高める)
 
・「15kmビルドアップ走」で速くなる。
(レースペース、1分速め、1分半速めのペースで走る5キロ×3は、42.195kmの縮刷版)
 
・ウォーミングアップはしない。
(練習量が少ない市民マラソンレベルではむしろスタミナロスが心配)
 
これらが、彼のメソッドの中心でもあり、私がマラソンの練習を始めてからの4年半で実践してきていることである。
彼のメソッドについては、第17回長野マラソンがフルマラソンのデビューでフルマラソン同期でもある高校同級生のN藤君と一緒にその効果の検証とブラッシュアップを行っている。それらの作業は、実に楽しく、心の底からワクワクしてくるものである。そしてそれらは間違いなく、走り続ける上での大きなモチベーションとなっている。
例えば峠走。例えばビルドアップ走。そして、本番前の直前練習。N君も私も、岩本能史氏によって示されたメニューを自分なりにアレンジし(仕事との兼ね合いなどでせざるを得ない場合が大半だが)、自慢し合いもとい報告し合いながら本番当日を迎えるのである。
 
外せないのが本番7日前の「ダウンヒル走」である。これは、「太もも前側の大腿四頭筋を中心とする着地筋の鍛錬」で、峠走で鍛えた着地筋に最後のダメを押すもの。翌日、翌々日は、激しい筋肉痛に見舞われるのだが、それが残り数日での超回復を経て30キロの壁をやすやすと乗り越える強烈な着地筋に仕上がるのである。
このダウンヒル走に真剣に取り組んだのは、4回目の長野マラソン挑戦の7日前。それまでの3回の失敗ランで、いろいろと考えた敗因の数々(ペース配分やコース取り、食べ物飲み物の補給法やシューズやウェアの調子等)は、ひとえに風の前の塵に同じだったのではないか、元々の絶対的な走力不足に全てが起因しているのではないか、という結論に行き着いたからなのであった。
岩本氏は、「1度に走ってもいい距離は、月間走行距離の6分の1である。」
とも言っている。
これまでの月間走行距離が多い時で200km程度だった私は、絶対的な走力不足を痛感していた。そして、川内優輝選手の指導による「毎日走る作戦」と、エリック・ワイナイナ氏指導の「ダッシュ&腹筋強化」によって、確実にそして自然に走行距離が増え、直前4か月は300kmをゆうに超える走行距離をこなしていた私が、仕上げの一発にこのダウンヒル走をチョイスしたのは極めて自然な流れであった。
 
そして桜が咲く平成30(2018)年4月8日。私は、実家からの最寄り駅の一つ、三才駅まで徒歩でゆっくり向かい、しなの鉄道北しなの線に乗った。目指すは長野市の北、飯綱町にある長野市ベッドタウン福井団地。県道60号線、いわゆる北國街道の最高点から長野市街に向かって一気にダウンヒルを行うためである。
ダウンヒルだけを純粋に行うため、最高点まではゆっくり歩いていく。そして、いつものとおりウォーミングアップなしで走り始める。歩きとはいえ既に30分ほど登り坂を経由しているため、身体は温まっていた。
いきなりの下り。スタミナ満載で下り坂を走るのは初めてだったため、かなり新鮮であった。速い速い。自分でもビックリするほどスピードが出る。そして気持ちがいい。北島康介選手が金メダル獲得で叫んだあの台詞が頭を駆け巡る(笑)。
そして実家までの8kmをそのままの勢いで走り切る。桜が満開で日射しもあり、汗だく。いい走りができて大満足であった。
そしてこの走りが、大筋肉痛と超回復を生み、7日後の長野マラソン本番でその成果を発揮するのである。
 
となったかどうか(笑)。
 
読者の皆さんは、次回のブログ「4回目の本番〜第20回長野マラソン」をお楽しみに。

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長野市街を一望しながら一気に駆け下る

登山でトレーニング〜燕(つばくろ)岳

工藤夕貴(ゆうき)という女優に魅せられたのは、相米慎二監督の台風クラブ」であった。
昭和60(1985)年、第1回東京国際映画祭ヤングシネマ部門で大賞を受賞したこの映画で、彼女は若手実力女優の地位を確固たるものにしたのである。上京2年目の私は、情報誌「ぴあ」を頼りに都内の劇場に何度も足を運んだのだった。
その工藤夕貴が2017年、NHKBSプレミアムドラマ「山女(やまおんな)日記」で主演をした。観ないわけにはいかない。原作はあの湊かなえ。2夜連続で、前編が常念岳で後編が燕岳という構成だった。
そして私は、そのドラマを通じて、山に魅せられた女性に改めて魅せられてしまったのだった。
常念岳は、登った。
燕岳は、中学2年の集団登山で登ったきりだった。人生初のアルプス。人生初の山小屋泊。それ以来、現在まで40年近く訪れていない山。
その山が、「アルプスの女王」と呼ばれ、老若男女、特に女性登山客に絶大な人気を誇る山だということを知る。
 
行かなければ。
 
と思った。
燕岳は、北アルプス(飛騨山脈)にあって、山体の全てが長野県に属する日本二百名山。標高は2,763mである。常念山脈に属し、「北アルプス三大急登」の一つである合戦尾根を登り切ったところにある。大天井岳を通って槍ヶ岳に向かう「表銀座コース」の起点にもなっており、まさに北アルプスの入り口なのである。
山そのものは、花崗岩でできており、山頂一帯の独特の美しさが登山者の心を癒す。また、高山植物女王と言われるコマクサが群生しており、そのたたずまいも美しい。周辺のハイマツ帯に生息するライチョウに出会うこともある。
登山口は、中房温泉。江戸時代から脈々と続く伝統ある温泉郷で、日本百名湯の一つである。
平成29(2017)年9月9日、私は夜がまだ明けきらぬうちにここ、中房温泉に車でやってきたのだった。そして、いきなりこの燕岳の人気ぶりに打ちのめされるのであった。
まずその車の多さにビックリし、心が折れそうになる。駐車スペースを求めてさまよいながら、何とか登山口からかなり離れた所にそれを見つけ、トボトボと歩く。これが既に登山の始まりであった。
同じようにさまよっていた人に聞くと、昨年からまたさらに車が増えているとのことで、「ここまで停められないのは、ちょっと想像を超えていた」とのことであった。
そして登山口に近づくにつれてどんどん人が多くなっていき、既にある程度の列ができている。スゴい。大人気だ。
登山口から、いきなり葛折りのなかなかの急登に入るのだが、そこも行列。ペースがゆっくりなので、急登も全く苦にならない。これではいつになったら山頂に着くか分からない(そんなことはないのだが(笑))と思った私は、少しずつ少しずつ、邪魔にならないように気を遣いながら追い越しを開始するのであった。
人の列が、途切れずにダラダラダラダラ連なっているので、「はいごめんなさい」「すみません」と言って追い越しをするとまたすぐ次の人の塊に追いつき、「はいすみません」と言ってまた追い越していく。この繰り返しを延々と連続で行っていくことになってしまう。
これもトレーニングだと思ってがんばる。またがんばる。いったいどのくらいの人を抜かすことになるだろうかとちょっと数えてみたら、30分で90人を追い越していた(笑)。山頂まで約2時間半(コースタイムは約4時間半)で、450人追い越した計算になった。
これがスゴいのかどうなのかはよく分からないが、とにかく山頂まで引きも切らないこの人の列そのものが驚嘆に値することは間違いない。とにかく大人気であった。
途中の休憩所の合戦小屋も大賑わい。下からプチスキーリフトのようなケーブルで吊り上げているスイカが名物のようで、ベンチに休憩中の人々の手に手に赤いスイカがあった。一切れ800円と高額であったために、次回のお楽しみとした(笑)。
そして、450人ほど追い越したなかなかのハイペースな私を、さらに上回るペースで追い越していった人たちがいた。3名。彼らは絶対にマラソンランナーであるはずだ。そして4時間、いや、3時間を切るツワモノであるはずだ。と、そう思って納得するしかないほど鮮やかに、完膚なきまでに私はスピードにおいて敗北を喫したのであった。上には上がいる。
山頂に続く尾根に出ると、そこに人気の燕山(えんざん)荘があった。その姿、カラーリングも燕岳を模しているかのようで美しい。40年近く前になるが、こんな素敵な山小屋に泊まることができた中学生は極上の幸せ者である。当時はある程度しかその幸せを噛みしめることができなかったが、今は分かる。成長したな、自分。
燕山荘から山頂までの約30分は、美しい山並みと美しく可憐なコマクサの群生に癒されながらゆっくりと進む。
新婚時代に妻とF士通のテニスクラブの仲間に入れてもらってテニスをしていた頃に最も仲良くしていただいたS久間ご夫妻のことが頭をよぎる。ご夫妻の妻の方が、自分のことを「S久間コマクサ、下から読んでもS久間コマクサ」と紹介していたことを思い出したのだった(笑)。
有名な「いるか岩」で記念撮影をしたら山頂はすぐそこである。花崗岩のサラサラとした感じから、沖縄の海を思い出す。夏の日差しがよく似合っている。
天気がよかったため、表銀座コースもクッキリとよく見えた。その先にある槍ヶ岳の勇姿ももちろん含めてである。「こんなところに、工藤夕貴のような山に魅せられた女性と一緒に来れたらどんなに素晴らしいだろう。」とは努めて思わないようにして、「ここに出不精の我が妻を連れてくるにはどういう口車を用意すればいいのだろうか(笑)。」と、そんなことを考えながら、また人の列の邪魔にならないようならないよう、気をつけながら下山するのであった。
最後に一つ。
人の列が尋常でないことのメリット。「あ! 」と、下山中に気がついた。それは、リュックや靴といった様々な登山アイテムの人気ぶりの調査が簡単にできるということであった。母数が多いので、かなり客観的に傾向が分かる。さながら選挙の出口調査のようである。
年配の方、若い子たちの好むメーカーの違いなどを嗅ぎ分ければ、メーカーごとの支持層や最近の傾向の移ろいまで分かるような気がする。
そして私は、英国の「カリマー」が好きになってしまう。デザインがスッとしてキュっとなっており(笑)、使っている人が皆、洗練されたスタイリッシュな出で立ちに見えてきてしまうのであった。まさに、女王。
数日後、私はたまらなくなってカリマーのリュックを買ってしまうのであった。

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いるか岩、燕山(えんざん)荘、燕岳山頂、そして尋常でない登山客の列