なぜ私は毎日走っているのか。フルマラソン・サブ4(サブフォー)への道

50歳を過ぎた普通のサラリーマンが、ある出来事をきっかけに毎日走り続けるそのモチベーションの数々。

いきなりの20km。

入院中の社長が危険な状態だということは、定例の週末管理職ミーティングで情報が共有されていた。

社長、がんばれ。
高校の先輩でもある勤務先の社長。妻の母と小学校の同級生ということもあって、何かと我が夫婦のことを気遣ってくれ、円満な結婚生活のコツを教わったりしていた。さらに、高校の同窓会の幹事会でバッタリ会ったりして、仕事以外のことでの親近感は強かった。なんとかして病に打ち勝ってほしいという気持ちが募り、どうにももどかしい。
よし、走るか。
4月の本番に向けて、いつマラソンの練習を始めようかと思っていた11月初めの三連休最終日の月曜日、走ることを決めた。
どうせ走るなら一発目は長い距離がいい。景気付けだ。
これまでの人生でランニングの最長距離は、高校時代の硬式テニス部の練習で年に一度の恒例「城山10周走」で走った10kmである。苦しくて死ぬ思いだった記憶がある。さあ、どうするか。
よし、20kmだ。
未知の領域への挑戦は、もちろん社長へのエールでもあった。コースは国道18号を北上するルート。通称アップルライン跨線橋から社長が入院している長野市民病院が見渡せる。
社長! 社長! 社長!
20kmを走り切れたら社長もなんとか持ち直してくれるはず! と、心の中で念じながら、1キロ6分前後のペースを刻んでいく。
走り始めて5km。肩が凝ってきた。呼吸の苦しさや脚のだるさよりも気になる。腕を90度に折った状態で30分以上経過しているからなのか、実にツラい両肩の倦怠感だった。腕をダラリと下げ、肩を回すなどしてリラックスするようにしてもどうにもツラい。結局この肩凝りは、ずっと耐え続けなければならなかった。
GPSで距離を測定するアプリケーションが10kmを示した。よし、折り返し地点だ。
折り返し地点は、長野では有名なある程度の年齢の人なら分かる「海はこっち、山はこっち」の看板があった交差点だった。確か信号機は「豊野」。長野市との合併前は豊野町だったところである。
よくこんなところまで来たなー。
という感慨がわいてきて、思わず佇んでしまった。ここでウインドブレーカーを脱ぎ、腰に巻きつける。脱いでもまだ長袖シャツを着ていた。当時は、今では考えられない厚着であった。当然、汗だくである。
折り返し後の帰路は、すぐに身体の疲れが増し、ペースがどんどん落ちていった。さすがに未知の領域である。キツい。
それでも12km、13km辺りまでは腕を振ることで何とかがんばれたのだが、15kmを過ぎると身体全体に疲労が広がって力が入らない。腰が痛くなり、足の裏も若干痛くなる。そして足が上がらなくなり、腕を振ろうがピッチを小刻みにしようが、何をやっても進まないという感じ。もう完全に精神力だけで進んでいた。
そしてラスト3km地点、駐車場入り口にピンクのカーテンが掛かったホテル志賀の前を通るとき、なぜだか無性に悔しい気持ちになる(笑)。ちくしょーっ! と意味もなく叫ぶ(笑)。
1キロ7分から8分。今思えば全くの未経験者が何の補給もせずに10km以上走っているわけだから、完全にエネルギー切れである。危険な行為であった。
ついに実家にゴール。見事に20kmを走り切った。2時間17分2秒。疲労困憊。普通に歩くこともままならないほどであった。しかし、走り切った達成感は格別。現役体育会高校生だった時の倍の距離を走り切ったのである。やればできるじゃないか。すごいな俺。すごいぞこの49歳。おかげで社長のことなどすっかり頭の中から消えてしまっていた。
そして翌朝、社長の訃報を知る。ちょうど私が走りながら念を送っていた時間帯に旅立たれたようである。

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叫んでしまったホテル志賀の前