なぜ私は毎日走っているのか。フルマラソン・サブ4(サブフォー)への道

50歳を過ぎた普通のサラリーマンが、ある出来事をきっかけに毎日走り続けるそのモチベーションの数々。

歴史と伝統の青梅マラソン〜第51回、第53回大会

「俺たちと同い年だから、俺はこのTシャツで走るよ。」
高校同級生のN本君は、嬉しそうに参加者全員に配付される大会オフィシャルTシャツにナンバーカードを付けて走る準備をしていた。
「こんないいことないじゃん。毎年同い年。当たり前か(笑)。」
嬉々としてアップを始めたN本君とは対照的に、数字に弱い私は今ひとつピンと来ておらず、まだ困惑していた(笑)。
 
青梅マラソンは、我々が1歳の時(昭和42(1967)年2月)に第1回大会が開催され、以来毎年1回ずつ回を重ね、我々の年齢と同じ数の開催を積み上げてきている。
そして平成29(2017)年2月19日に開催された第51回青梅マラソンに臨んだ我々同期は、ほぼ昭和40(1965)年生まれの51歳。つまり同い年というわけである。これは、来年も、またその来年も、1年に1度の開催が続く限り変わらない。
(数字に弱い私はここまで書き上げるのにたっぷり1時間(笑))
 
青梅マラソンは、東京・青梅市で開催される市民マラソン大会である。例年2月の第3日曜日に開催され、主催は東京陸上競技協会・青梅市報知新聞社などで構成される青梅マラソン財団。ボストンマラソンと姉妹提携をしている。
第1回開催当時、一般市民が参加できるマラソン大会は日本国内にはなく、著名なアスリートと一緒にレースに参加できる大規模な大会として有名になり、今日のような全国から参加者が集まる市民マラソン大会の先駆けと言える歴史と伝統を誇る。
30キロの部と10キロの部を合わせて1万9000人が参加する大規模な大会で、オリンピックや箱根駅伝国際レースで活躍するアスリートも出場することから沿道からの声援も多く、私設エイド(個人で行う給水給食ポイント)の多いアットホームな雰囲気がある。
かつて高橋尚子選手や野口みずき選手も走っており、その後にオリンピックで金メダルを獲得しているという験(ゲン)の良さもある。
 
青梅マラソンは、子どもの頃からその名前を聞いたことがある有名な大会であるということもさることながら、マラソン仲間でもある会社の後輩女子A野Y香がかつて参加した際、
「前半の上りがメチャメチャきつい。いつ終わるんだという感じでこれでもかと登らされて、帰りは帰りで下りもまたツラい。とにかくメッチャきつい大会でした〜〜。もう走りたくない。」
というコメントを残していたため、とにかくハードな大会というイメージがあった。
実際、コースは青梅街道をひたすら上り、折り返してひたすら元来た道を戻るというもの。実にシンプルな厳しさである。
スタート前はさすがに緊張した。大丈夫か、俺(笑)。
とはいえ、スタートしたらとにかく走るしかない。42.195ではなく、30キロであるということに一縷の安堵感を求めつつ、走り始めた。
走り始めると、上り坂は、思ったよりもキツくはなかった。長野の山の中でアップダウンを多く経験してきたからなのだろうか、起伏の強弱も多くはなく、むしろリズムを掴みやすいくらいであった。
長さも、あまり気にならなかった。7km地点の辺りで折り返してくるランナーのための反対車線の確保が始まり、そして8km地点辺りでトップ集団とすれ違った。もの凄いスピードで駆け下りていく集団の中に、山の神・神野大地選手がいた。
そしてあれよあれよという間に10km地点。この辺りから続々と折り返してくるランナーたちが増え、N本君ともすれ違い、アイコンタクトでエール交換を行う。コースに沿って走る青梅線の駅の風景や私設エイドを楽しみながら、さほど苦しくなく折り返し点に到達することができた。
下りは楽しい。とても気持ちのいい走りができた。さすがにラスト数キロは苦しくてゴールが待ち遠しかったが、後は何の問題もなくラストスパートもできて気持ちよくゴール!! という結果であった。トイレを我慢していたためにゴール後すぐにトイレに駆け込んだというのが唯一ピンチらしいピンチだったくらいだ。
 
あの、歴史と伝統の青梅マラソンを完走した。
我々高校同級生たちは、ある種の感慨とともにお互いのゴールを称え合った。
その後、私は高校同級生のN藤君とともに、青梅在住の高校同級生T永君のお宅にお邪魔して彼の手料理で祝杯をあげたのだった。
T永君の家は、マンションの高層階にあり、多摩川上流のうねりが眼下に見下ろせる素晴らしい景色が魅力だった。夕日に映えた多摩川が、完走の安堵感からかドッと疲れを感じている我々に最高級のもてなしをしてくれた。
T永君とは、1年前、同級生のS戸さんとともに新宿西口で酒を酌み交わしていたが、その時彼は青梅マラソンを走ってから駆けつけてきてくれたのだった。エアロビクスをディープな趣味としている彼も、なかなかにタフガイである。
その2年後の、平成31(2019)年の2月17日。我々が53歳の時の第53回大会に参加した際も、私はT永君のマンションでご馳走になったのであった。今度は彼の奥さんと彼の従兄弟のK山さんとの4人でテーブルを囲ませていただいた。K山さんは、何と長野の須坂市出身で長野の企業にお勤めでありながら現在東久留米在住ということで、私と実によく似た環境で走っておられ、日頃のランニングや今回の結果についての話が実に面白かった。
 
その第53回大会。また高校同級生たちとともに走った。かつて10キロの部を走っていた女子2名も今回はしっかり30キロを走った。素晴らしい。
我々男子6名は、シューズの話題で盛り上がった。それは、マラソン日本新記録を樹立して報奨金1億円を相次いで獲得した設楽悠太選手や大迫傑選手らが履いて世間の注目を集め、箱根駅伝でもその占有率が高かったナイキの厚底シューズ「ズームフライ」についてであった。
4月の長野マラソンに照準を合わせ、新しいシューズを模索していた私とN藤君が、ともに彼らのシューズとほぼ同じ仕様のモデル、ナイキの「ズームフライ フライニット(ZFFK)」で走ったため、話題はその使用感の発表が中心となった。
合う、合わない、走り方を変えなければならない、など、いろいろと賛否両論ある中で、実際に我々は、自己ベストを大幅に更新したのであるから、結論として、
「我々レベルのランナーにも、このハイテクシューズは有効」
と考えざるを得ない。
何より走り心地が最高に気持ちいいのである。平地は背中から微かな追い風が吹いているようで、上りはグイグイと背中を押されている感じ。そして下りはそのスピードが抑えきれないという、素晴らしいズームフライ フライニット。故障明けで心配していた左膝も、何の問題もなかった。
 
来たる長野マラソンが楽しみで仕方がない。

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人、人、人、の青梅マラソンは、まさに東京トラッドなのである。