なぜ私は毎日走っているのか。フルマラソン・サブ4(サブフォー)への道

50歳を過ぎた普通のサラリーマンが、ある出来事をきっかけに毎日走り続けるそのモチベーションの数々。

5回目の本番〜第21回長野マラソン

「お前! こんなとこで何やってんだよ! 行け! 行け!」


フィールドの人工芝に這いつくばっていた私の頭上に聞き覚えのある声の怒号が響く。もう何がなんだかわからない。夢の中に居るような感覚。

「そうだ、脚の痙攣で転んでしまったんだ俺は。ゴールまであと100m。行けるか。や、行くしかない。ゴロゴロと寝転がってでもあと数分以内に絶対にゴールしてやる!」

これまで4回の挑戦でことごとく跳ね返されてきたサブフォーの壁に、今回は最後の最後まで闘志むき出しで挑み続けることができた。それが最大の勝因だったのかもしれない。

平成31年4月21日に行われた第21回長野マラソン。今回も前半は快調なペース。キロ5分前後で時折4分台も出るといったいった軽快なラップで20kmまで。そして30kmまでもややペースは落ちたもののなんとか順調なペース。デビューの青梅マラソンでいい結果を出して長野マラソンに向けて調整に余念がなかったナイキの厚底シューズ「ズームフライフライニット(ZFFK)」はここまで最高のパフォーマンスを発揮してくれていた。

が、しかし、落とし穴はしっかりと35km過ぎに大きな口を開けて待っていたのだった。脚に違和感が生まれ、あっという間にどんどん大きくなり、ピキっ! とかすかな痙攣が起こる。ヤバい。右も、左も。両脚がパンパンで、ちょっとでも力を入れると痙攣が起こる。立ち止まってストレッチをする。屈伸をする。ゆっくりとスタートする。だましだまし走る。どうかこのままこのまま、何とかゴールまで持ち堪えてくれ、と、脚に祈りを込めて、コースに設置されているコールドスプレーを吹きかけてまたスタート、の繰り返し。

大幅なペースダウンであった。これまで15分以上あったサブフォーへの貯金がどんどんなくなっていく。このままではマズい。またこれまでの繰り返しだ。何の成長もないじゃないか。くそ、そんなことになってたまるか。何とかしないと、何とかしなければ。

しかし、脚はいっこうに言うことを聞いてくれない。長い長い土手の道。長い長いラスト5km。どうする? どうする?

ここで私は、これまで1度もしたことがなかったことをしたのである。その時なにを思っていたのかの記憶はもうない。とにかくやれることは何でもやろうというワラにもすがる思いだったのだろう。

水を、頭からかぶったのである。

脚にもかけた。

多くのマラソンランナーが普通に行う水かぶり。水をかぶるのは、水かぶり専用のスポンジがエイドに置いてあるくらい一般的なオーバーヒート対策である。

がしかし、私はこれまでただの1度も水をかぶったことがない。脚にかけたことすらない。

なぜこれまでしてこなかったのか。それは1999年の第75箱根駅伝で初優勝を狙った母校駒大が9区で順大に抜かれた場面に遡って説明しなければならない()。駒大の94年生北田初男選手がスピードに乗れず順大の選手に抜かれてしまったのは、脚に水をかけ過ぎたことで筋肉が冷えて固まってしまったからだというテレビの解説を聞いて以来、脚には水をかけてはいけないものだと思い込んでいたことと、単にシューズが濡れるのが嫌い、濡れたシューズでグチャグチャと走るのが嫌いだったことがあったからである。

しかし、もうそんなことは言っていられない。痙攣寸前の脚がコールドスプレーで一時的にでも回復するのであれば、水で冷やすのだっておんなじじゃないか、という単純なことに気がついたのだろう。たぶん。

頭と脚にザブザブと水をかけ、気合いを入れ直して走り始める。

するとしばらくして何とか痙攣せずにある程度のスピードを保ったまま前に進めるようになった。よし、何とかなる! と、そのままゴールの競技場を目指す。

何とかもってくれ、もってくれ、祈るような気持ちで走る。道路のわずかな凹凸にも気をつけながら慎重に慎重にしかし全力で進む。

そしてその緊張が競技場に入って緩んだのか、サーフェスが人工芝になっての必然だったのか、ゴール前で並んで応援をしてくれている小学生のかわいいダンスチーム女子たちの前で私は両脚に強い痙攣を起こし、前のめりに派手に転倒してしまったのである。超カッコ悪い。

そして偶然にも、すぐ後ろを走っていた大親友に喝を入れてもらい、気持ちを入れ直してすぐに走り始めることができたのであった。劇的である。今回も付けて走っていた背中の「久利多食堂ロゴ」のおかげで、大親友は迷うことなく私に大音声をかましてくれたらしい。親戚の力にまた助けられました。ありがとう久利多食堂。


ゴール。


ゴールラインの両脇にある電光掲示板が3時間58分を表示していたことだけはしっかりと意識の中にあったが、あとは無我夢中。ただがむしゃらに「前に、前に」と進むのみであった。

すぐに大親友が駆け寄ってきてくれた。そうだ。ここに居るということはつまり、大親友もサブフォーということだ。負けて少し悔しかったけど、2人でサブフォーなんて素晴らしいじゃないか。やった!やった!

ついに、私は悲願のサブフォーを達成したのだった。昨年のネットサブフォーから、押しも押されもしないグロスサブフォーである。やった!


「あそこ見て! そして笑って!」


感慨に浸る間もなく、大親友に言われるままその場で大親友と肩を組んで微笑む。どうやらケーブルテレビの定点カメラに向かってポージングをしていたようだ。この場面(フルを走り切った直後)でもなおかつ発揮される大親友のそんな目立つことへの周到さは尊敬に値する。とても真似はできない。


順位は2,361位。昨年の3,295位よりも935位分速くなった。大したものだ。あまり関係ないが、私の妻の名前は久美子(935)という。


いつもどおり、N本君とシャトルバスで柳原体育館まで帰ってくる。そこから昆虫のそれほど残った体力を使って1km先の実家まで歩く。するとラスト30mというところで、近くの公園でバーベキューをしている集団に声をかけられた。


「お疲れさま〜、一緒にどうぞ〜!」


フィニッシャーズタオルを肩に掛けたままだったので、1人のランナーとして労ってもらっているのであろう、ありがたいことだ、などと感慨に耽りながら亡霊のように歩み寄り、楽しそうな面々に拍手で迎えられる。


「超嬉しい、、、」


呟きながらよく見ると、その集団は、長野県のマスコットキャラクターの仕事をしているURいとその仲間たちであった。なんだ。Rいは家がこの公園のすぐ近くであり、私は彼女が10歳の頃から彼女の面倒を見ている。Rいは、口では言わないが私のサブフォー挑戦を応援してくれている一人なのであった。


「やったよ!」

「ふーん、よかったね。」


いつも素っ気ない。

しかし、ビールを飲ませてくれ、肉も食べさせてくれた。そして同じく長野マラソンを完走して駆けつけたFR恵さんを紹介してくれ、記念写真のセットまでしてくれた。Rい、ありがとう。ほかにも、 MNゆ子に至っては何と足のマッサージまでしてくれたのであった。

「だって42.195を走った人がそこに居るんだよ? そのくらいするでしょ。」

うーむ、胸に沁みる。大事にされて嬉しい。がんばってよかった。泣ける。


ちなみにこの場に数多いたメンバーとは、この後、夜の酒場で入れ替わり立ち替わり、幾度となく、事あるごとに一緒に飲むことになるのであった()。しかしこの時はそんなことになるなどとは夢にも思っていなかった。4時間という壁を超えたこの日、ある意味別の壁をも乗り越えて、私は新たなフィールドに脚を踏み入れたのかもしれない。


グロスタイム3時間5812

ネットタイム(参考)3時間5621


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