なぜ私は毎日走っているのか。フルマラソン・サブ4(サブフォー)への道

50歳を過ぎた普通のサラリーマンが、ある出来事をきっかけに毎日走り続けるそのモチベーションの数々。

歴史と伝統の青梅マラソン〜第51回、第53回大会

「俺たちと同い年だから、俺はこのTシャツで走るよ。」
高校同級生のN本君は、嬉しそうに参加者全員に配付される大会オフィシャルTシャツにナンバーカードを付けて走る準備をしていた。
「こんないいことないじゃん。毎年同い年。当たり前か(笑)。」
嬉々としてアップを始めたN本君とは対照的に、数字に弱い私は今ひとつピンと来ておらず、まだ困惑していた(笑)。
 
青梅マラソンは、我々が1歳の時(昭和42(1967)年2月)に第1回大会が開催され、以来毎年1回ずつ回を重ね、我々の年齢と同じ数の開催を積み上げてきている。
そして平成29(2017)年2月19日に開催された第51回青梅マラソンに臨んだ我々同期は、ほぼ昭和40(1965)年生まれの51歳。つまり同い年というわけである。これは、来年も、またその来年も、1年に1度の開催が続く限り変わらない。
(数字に弱い私はここまで書き上げるのにたっぷり1時間(笑))
 
青梅マラソンは、東京・青梅市で開催される市民マラソン大会である。例年2月の第3日曜日に開催され、主催は東京陸上競技協会・青梅市報知新聞社などで構成される青梅マラソン財団。ボストンマラソンと姉妹提携をしている。
第1回開催当時、一般市民が参加できるマラソン大会は日本国内にはなく、著名なアスリートと一緒にレースに参加できる大規模な大会として有名になり、今日のような全国から参加者が集まる市民マラソン大会の先駆けと言える歴史と伝統を誇る。
30キロの部と10キロの部を合わせて1万9000人が参加する大規模な大会で、オリンピックや箱根駅伝国際レースで活躍するアスリートも出場することから沿道からの声援も多く、私設エイド(個人で行う給水給食ポイント)の多いアットホームな雰囲気がある。
かつて高橋尚子選手や野口みずき選手も走っており、その後にオリンピックで金メダルを獲得しているという験(ゲン)の良さもある。
 
青梅マラソンは、子どもの頃からその名前を聞いたことがある有名な大会であるということもさることながら、マラソン仲間でもある会社の後輩女子A野Y香がかつて参加した際、
「前半の上りがメチャメチャきつい。いつ終わるんだという感じでこれでもかと登らされて、帰りは帰りで下りもまたツラい。とにかくメッチャきつい大会でした〜〜。もう走りたくない。」
というコメントを残していたため、とにかくハードな大会というイメージがあった。
実際、コースは青梅街道をひたすら上り、折り返してひたすら元来た道を戻るというもの。実にシンプルな厳しさである。
スタート前はさすがに緊張した。大丈夫か、俺(笑)。
とはいえ、スタートしたらとにかく走るしかない。42.195ではなく、30キロであるということに一縷の安堵感を求めつつ、走り始めた。
走り始めると、上り坂は、思ったよりもキツくはなかった。長野の山の中でアップダウンを多く経験してきたからなのだろうか、起伏の強弱も多くはなく、むしろリズムを掴みやすいくらいであった。
長さも、あまり気にならなかった。7km地点の辺りで折り返してくるランナーのための反対車線の確保が始まり、そして8km地点辺りでトップ集団とすれ違った。もの凄いスピードで駆け下りていく集団の中に、山の神・神野大地選手がいた。
そしてあれよあれよという間に10km地点。この辺りから続々と折り返してくるランナーたちが増え、N本君ともすれ違い、アイコンタクトでエール交換を行う。コースに沿って走る青梅線の駅の風景や私設エイドを楽しみながら、さほど苦しくなく折り返し点に到達することができた。
下りは楽しい。とても気持ちのいい走りができた。さすがにラスト数キロは苦しくてゴールが待ち遠しかったが、後は何の問題もなくラストスパートもできて気持ちよくゴール!! という結果であった。トイレを我慢していたためにゴール後すぐにトイレに駆け込んだというのが唯一ピンチらしいピンチだったくらいだ。
 
あの、歴史と伝統の青梅マラソンを完走した。
我々高校同級生たちは、ある種の感慨とともにお互いのゴールを称え合った。
その後、私は高校同級生のN藤君とともに、青梅在住の高校同級生T永君のお宅にお邪魔して彼の手料理で祝杯をあげたのだった。
T永君の家は、マンションの高層階にあり、多摩川上流のうねりが眼下に見下ろせる素晴らしい景色が魅力だった。夕日に映えた多摩川が、完走の安堵感からかドッと疲れを感じている我々に最高級のもてなしをしてくれた。
T永君とは、1年前、同級生のS戸さんとともに新宿西口で酒を酌み交わしていたが、その時彼は青梅マラソンを走ってから駆けつけてきてくれたのだった。エアロビクスをディープな趣味としている彼も、なかなかにタフガイである。
その2年後の、平成31(2019)年の2月17日。我々が53歳の時の第53回大会に参加した際も、私はT永君のマンションでご馳走になったのであった。今度は彼の奥さんと彼の従兄弟のK山さんとの4人でテーブルを囲ませていただいた。K山さんは、何と長野の須坂市出身で長野の企業にお勤めでありながら現在東久留米在住ということで、私と実によく似た環境で走っておられ、日頃のランニングや今回の結果についての話が実に面白かった。
 
その第53回大会。また高校同級生たちとともに走った。かつて10キロの部を走っていた女子2名も今回はしっかり30キロを走った。素晴らしい。
我々男子6名は、シューズの話題で盛り上がった。それは、マラソン日本新記録を樹立して報奨金1億円を相次いで獲得した設楽悠太選手や大迫傑選手らが履いて世間の注目を集め、箱根駅伝でもその占有率が高かったナイキの厚底シューズ「ズームフライ」についてであった。
4月の長野マラソンに照準を合わせ、新しいシューズを模索していた私とN藤君が、ともに彼らのシューズとほぼ同じ仕様のモデル、ナイキの「ズームフライ フライニット(ZFFK)」で走ったため、話題はその使用感の発表が中心となった。
合う、合わない、走り方を変えなければならない、など、いろいろと賛否両論ある中で、実際に我々は、自己ベストを大幅に更新したのであるから、結論として、
「我々レベルのランナーにも、このハイテクシューズは有効」
と考えざるを得ない。
何より走り心地が最高に気持ちいいのである。平地は背中から微かな追い風が吹いているようで、上りはグイグイと背中を押されている感じ。そして下りはそのスピードが抑えきれないという、素晴らしいズームフライ フライニット。故障明けで心配していた左膝も、何の問題もなかった。
 
来たる長野マラソンが楽しみで仕方がない。

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人、人、人、の青梅マラソンは、まさに東京トラッドなのである。

ついに膝を痛める〜鵞足炎

毎日走っているうちに、どんどん走行距離が伸びた私。

自分でも「いったいどこまで走れるんだろう」と、多少はおっかなびっくりしながら基本的にはガンガン距離を伸ばしていった。月間走行距離の自己記録もどんどん更新することが続く中(2018年365日の総走行距離は3,109.5kmで、2017年より500kmほど多い躍進であった。)、ついに、ついに故障に見舞われることになったのである。
まずは、故障に至るまでの経緯を振り返ってみよう(ジョグノートからの抜粋)。

平成30(2018)年12月16日(日)、63km。
1日中ラン。なんとか走り切れた。行きは信更町の中心部から、帰りは茶臼山を下る。北アルプスが真っ白で綺麗だった。月間100km達成。1日走行距離自己新記録達成!膝も腿も腰も肩も痛くない幸せ(^-^)v
 
12月17日(月)、2km。
疲れすぎたのか3時に目覚めてしまいあとはウトウト結局寝坊の朝ラン。左膝頭が少し痛い以外はいつもと変わらない幸せ。ただスピードは全く出ず。雨上がり。
 
12月18日(火)、10km。
両脚筋肉痛わずかなれどスピード出ず。まぁ、これで良しとしよう。
 
12月19日(水)、10km。
まだ両脚筋肉痛でスピード出ず。
 
12月20日(木)、10km。
脚全体に疲労感。力が入らない。寝起きだからか?
 
12月21日(金)、11km。
だんだんスピードが戻ってきた、と思ったけど気のせいだった。月間走行距離200km達成。
 
12月22日(土)、5km。
快眠、快食、快便、そして快ラン。
 
12月23日(日)、11km。
身体メッチャ重い。左膝もちょっと痛いし。
 
12月24日(月)、7km。
左膝がちょっと痛いけど、スピードが戻ってきて気持ちいい走りができた。
 
12月25日(火)、5km。
受験勉強中の二男に起こしてもらう。暗くて眠くて怖くてスピード出せず。左膝お皿の右足側が少し痛い。や、痛いのではない。凝りが集中しているというか、とにかく強い違和感。無理しないようにしている。月明かり。
 
12月26日(水)、12km。
左膝に違和感。
 
12月27日(木)、5km。
左膝内側の違和感が激しく、自重。どうなるのか。痛みはないがスピード出せず。
 
ここで、左膝に感じている強い違和感について、自分でもヤバいなこれは、と思い始めている。自重開始。2日後には大親友との恒例ランの予定が控えていた。
あと1日の自重で何とか回復してほしい。祈るような気持ちであった。
 
12月28日(金)、2km。
左膝内側の筋がぼんやり痛いので自重。
 
12月29日(土)、11km。
今井駅に現地集合してからのスタート。左膝痛い。五輪大橋を渡ったところでリタイア。大親友すまーん。痛みそのものは何とかなるレベルだったが痛いところ以外に張りが感じられたので大事をとって中止を決断。
 
ついに、来た。来てしまった。この時の左膝の違和感は、ハッキリと痛みに変わっていた。そして、違和感を感じていた部分ではないところに別な張りを感じ、これはフォームが崩れているためだと推測、被害拡大を止めるためにも走行中止を決断したのであった。吹雪の中、大親友には申し訳ないことをした。
とはいえ普段は絶対に乗らないであろう人生初の川中島バス松岡路線に乗って移動するという、何とも楽しい経験をすることができたからまぁいっか。
この日はその後、大親友とともに恒例の善光寺仁王門での阿吽の呼吸記念撮影や、亀の湯、そして長野市民のソウルフードいむらやの焼きそば&ビールといったメニューをこなしたのだが、移動は全て徒歩。左脚を引きずりながら歩くという情けない動きとなってしまった。しかし痛いものは痛い。仕方がなかった。
そして、翌日からは完全なる自重生活に入ったのである。
 
12月30日(日)、2km。
左膝が痛いので自重。
 
12月31日(月)、2km。
左膝が痛いので自重。どうやら足炎か。
 
ここで、セルフ診断をした私(笑)。
「鵞足炎(がそくえん)」というケガの名前が出てきたので、それについて説明しておこう。
鵞足は、膝周りの筋肉が腱となり膝の内側で脛骨の上部に付着している部分で、鵞鳥(がちょう)の足のような形をしていることからそのように呼ばれている。
鵞足炎は、この鵞足腱や鵞足包(鵞足と内側側副靱帯の間にある滑液包)が炎症を起こしている状態。陸上競技やサッカーの選手に多い。ウォーミングアップ不足や、急に長い距離を走ったり使い過ぎたりすることが原因。X脚などの骨格異常や練習場所(アスファルト、坂といった練習場所)にも起因する。
 
要するに、走り過ぎであった。
医者が嫌いな私。何とか自重することで回復を図ろうとした。
 
平成31(2019)年1月1日(火)、9km。
恒例となった同級生との早朝ラン。貸し切り状態のトラックにて弾丸トークが止まらずにあっという間の1時間。そして感動的な初日の出。
 
1月2日(水)、6km。
長男と朝ラン-1℃。積雪5cm。長男に防水ゴルフシューズを貸し、自分は新調した軽量長靴で。善光寺でお上人様の数珠を頂戴。しかもいらしたのは善光寺住職の鷹司誓玉大僧正。今年はいいことありそう。
 
1月3日(木)、2km。
左膝の痛みは微小となって違和感に戻ってきた。油断せずにしっかりケアしたい。
 
1月4日(金)、2km。
左膝の違和感はわずかなものになったが、慎重に慎重に。
 
1月5日(土)、2km。
左膝の違和感は走ると出てくるという感じ。
 
1月6日(日)、2km。
久しぶりに力を入れて走ってみる。スピード失われていなくて一安心。膝の違和感は微小に。油断せずもうしばらく養生したい。
 
1月7日(月)、5km。
歩行時、階段含め全く違和感なくなった膝が、走り始めるとやはり少し違和感。走ることの負荷を改めて感じる。
 
1月8日(火)、2km。
最初の500mは膝に違和感全くなし。
 
1月9日(水)、3km。
積雪3cm。膝の違和感と向き合いながら。長靴。
 
1月10日(木)、2km。
スピードが戻ってきた。
 
1月11日(金)、5km。
左膝の違和感は、2キロ過ぎから。だんだん違和感なく走れる距離が延びている。ランナーズ2月号を読みながら膝の痛みを予防するストレッチも取り入れながら、油断せずに復活していきたい。
 
1月12日(土)、2km。
左膝の違和感は1キロ過ぎから。まだしばらく無理しない。
 
1月13日(日)、2km。
飯縄山登山後なので左膝にまた違和感。無理せずがまん。
 
何とここで飯縄登山(笑)。しかも人生初の冬山登山である(笑)。実は膝のことはあまり深刻に考えていなかったのかもしれない。
 
1月14日(月)、10km。
おそるおそるスタート。1km地点で10キロ行ってみようと決断。昨日の膝の違和感は、登山に限った違和感だったことが判明。走ることによる違和感はまた別物で、それは順調に回復していた。おそるおそるペースアップ。ラスト数キロまで違和感なく走れた。16日ぶりの10キロ走で身体が鈍り汗の量が多めでだらしなかった。
 
1月15日(火)、5km。
膝を気にせず走れた。ラストのわずかな違和感のみ。
 
1月16日(水)、5km。
身体が重かった。
 
1月17日(木)、5km。
寒い。
 
1月18日(金)、5km。
1/11にひいた(たぶん)風邪が治ってきて痰が出る。時折咳も。
 
1月19日(土)、5km。
左膝の違和感ほぼ消えた。風邪の治りかけでゴール後咳込む。
 
1月20日(日)、5km。
最初の2キロはチャリの二男と会話しながら。
 
1月21日(月)、7km。
久しぶりの連続4分台。いい感じに戻ってきた。長い自重生活で2キロほど増えた身体が重いのはご愛嬌か。
 
1月22日(火)、15km。
6キロ以降の登りがキツかったが何とか5分台をキープ。やはり出てきた左膝の違和感は7キロから13キロまで。ラストは無我夢中でナイスラン。
 
1月23日(水)、10km。
3キロ過ぎから左膝に違和感。あまりスピード出さず。
 
1月24日(木)、10km。
前半抑え目で全体的にスイスイ。左膝の違和感は9km辺りわずかに。いい感じ。
 
1月25日(金)、10km。
左膝の違和感は9km地点のみ。全体的にはスイスイ。
 
1月26日(土)、12km。
左膝の違和感は9km辺りでわずかに。ラスト3キロのラップが美しい。いい走りができて満足満足。
 
1月27日(日)、14km。
積雪15cm。防水のゴルフシューズでナイスラン。左膝の違和感は7キロ辺りからわずかにずっと。
 
1月28日(月)、10km。
ミッドフットのみ意識してゆっくり。左膝の違和感は最初の1キロのみ。ラン後に疲労感。
 
1月29日(火)、19km。
路面凍結でミッドフットからトップフットを意識して走る。左膝の違和感なし。よかった! 悪夢の10kmリタイアからここまで1か月かかってしまったが何とか回復してよかったよかった。打ち上げの芋焼酎水割りがまいうー。
 
めでたしめでたし。これ以降、ジョグノートに左膝に関する記述はない。この時は「1か月も」という感じで書いているが、今思えば、1か月で回復したのであればもう上出来の部類である。
よかったよかった。
本当によかった。
 
一人打ち上げの芋焼酎が、我ながらシブい。

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人生初、無念のリタイアとなってしまった大親友とのラン

登山でトレーニング〜焼岳

上高地というところは、ハードルが高くていけない。
高度成長時代に急激に観光地化が進んだ上高地。世界的に有名であるが故に、長野県内でありながらどことなく都会の近寄り難い感じがあって、ずっと近寄っていなかった(笑)。
ハイヒールで行く女性が多いとか、マイカー規制がどうとか、大正池からは白樺が生えているとか(いやいや生えているところに池ができたんだって(笑))、そんな数々の情報は小学生の頃から教科書などから得ていたが、未だにそのような形でしか情報が得られていないというのがいかにも近寄り難い都会的なところの象徴となっている。
 
そんな上高地を上から見下ろす位置にあり、かつ、日本百名山であり、かつ、日帰り登山ができる山があると「信州百名山(清水栄一著)」で読んでから、これは行くしかないと狙いを定めたのが焼岳2,455mであった。
焼岳は、北アルプスの稜線上にあり、北アルプス唯一の活火山で、別名硫黄岳。そもそも大正池ができるきっかけになったのが、大正4(1915)年の焼岳の大噴火であったという。平成新山雲仙普賢岳の噴火、昭和新山は北海道有珠山の噴火ででき、大正池は、焼岳の噴火でできたのである。
近寄り難かった上高地へのアクセスの様子を下見することも兼ねて、平成30(2018)年10月21日に、私は焼岳への挑戦を実行に移した。
 
夜明け前、長野市内の実家から車で2時間ほどで登山口がある安房峠付近までやってきた。国道158号安房トンネル(安房峠道路)に入ってしまうと長さ5.6km、岐阜県にかなり入ったところに出てしまうので、そうならないよう注意深く進む。
かつて、岐阜県に通じるルートは、安房峠に至る九十九折りの狭い峠道であった。大型観光バスで行楽シーズンには大渋滞。しかも積雪のため冬季は閉鎖。そんな交通難は、平成9(1997)年の安房トンネル完成によって通年アクセスが可能になるまで続いたのである。最近のことではないか。
そしてその国道158号の中ノ湯から上高地へ向かう県道24号線は、通年でマイカー規制が行われ、一般車は通行できない。上高地に入るためには車を長野県側の沢渡(さわんど)駐車場か岐阜県側のアカンダナ駐車場に止め、シャトルバスかタクシーを使うのである。けっこう面倒だ。
県道24号線への入口には一般車両の誤進入に備えて民間の警備員が立っており、何だか物々しい雰囲気であった。
 
5時30分、登山口付近に車を止めて登り始める。1時間ほどして樹林帯を抜け、眺望が良くなる。山頂までのルートのほぼ全てを見ることができ、左に振り返ると飛騨山脈の続きに乗鞍岳御嶽山が見え、右に振り返ると松本盆地が一望できた。
山頂付近の噴火口から上がっているのであろう噴煙が風になびいて斜め上に立ち昇っているのが遠目にクッキリと見え、青空とのコントラストが美しい。
気温は0℃。市街地にはまだ夏の余韻が残るこの時期に、登山道の脇に霜柱や氷が見られ、北アルプスの厳しさを感じる。この辺りから岐阜県側から来たという若者男子3人組と同道させていただく。リーダー君が焼岳経験者ということで、右前方に見える雄大西穂高岳奥穂高岳前穂高岳、がどれがどれだか教えてもらえてよかった。
 
何とか噴火口周辺のプチ外輪山の稜線までたどり着き、噴煙を間近で見る。近づき過ぎるととても危険なので、注意深く危なくないように写真を撮る。シューシューと音を立てて上がる噴煙が作り出す白と黄色の世界はまさに別世界。異空間である。
その山頂付近、白と黄色の世界を時計と反対回りに巻くようにグルっと登ると山頂(北峰)に着いた。7時40分。コースタイム3時間のところ、2時間10分といったところだった。
眼下に広がる上高地の盆地としての雄大さに驚き、西穂、奥穂、前穂の連山の山肌が雪でしっかり白くなっていることに驚き、そしてその穂高岳の向こう側に槍ヶ岳の雄姿がしっかりと見えたことに感動した。槍をいつもと反対の側から見たのは初めてであった。
 
男子3人組は、山頂に着くとリュックの中からダウンジャケットなどの防寒着を出して着用した。慣れてるなと思った。この時期の山頂はすでにかなり寒い。ほぼ真冬である。山頂でゆっくりしたいのなら防寒着は必須。私は一つ勉強になり、以後それを実践することになる。薄手のダウンはそんなふうに使うのか、と、目からウロコであった。彼らは、登ったルートではなく上高地に通じるルートを使って降りていくという。どうもありがとうございました。
 
下山後、時間と体力に余裕があったので、
松本市街をグルっとランニング。国道19号沿いに車を止め、日本全国日本晴れの中、観光客ウジャウジャの中を颯爽と駆け抜けた(笑)。松本城からあがたの森公園松商学園までぐるっと回り、南側を流れる薄川(すすきがわ)に沿って国道18号に戻る10kmコース。
 
「ところどころ松本マラソンのコースが被って楽しかった!」
 
10kmを走り終えて書いたSNSジョグノートへの記入時刻は14時29分。まだまだ時間がある。上高地と焼山は思ったよりもずっと近かったのであった。

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手軽に活火山を堪能できるのが魅力の焼岳

 

ランニングコースいろいろ〜朝日山観世音コース。

南無阿弥陀仏と念仏を唱えるのは、極楽浄土を願うため。
それとは対照的に、現世での望みを叶えてくれると言われ俗世間的な願いを一身に引き受けているのが観世音菩薩、いわゆる観音様である。この現世利益(げんぜりやく)専門の仏様は、なぜか切り立った崖の中腹に際どく建てられた観音堂の中にある。有名な京都の清水寺も、切り立った崖の上(清水の舞台)に御堂があるので、たぶん中に相当な観音様がいらっしゃるのであろう。
 
さて、長野で最も有名な観音様の一つに、朝日山観世音がある。長野市街地の西、旭山という標高785mの山の中腹にある。
本尊は聖観世音菩薩といい、現世の願いをとてもよく叶えてくれる(との期待がものすごく集まっている)のである。特に学業成就、志望校への合格に威力を発揮するということで、昔から(少なくとも私が小さい頃から)篤く頼りにされている。
この観音様は、元々旭山北面の岩屋に祭られていた。私が小さい頃は、裾花川沿いの里島発電所から登る登山道があって、その細い道は参拝客で賑わっていた。
吊り橋を渡った先にある登山口から既に線香の匂いに包まれており、ものすごく霊的な感じがしていた。そして細く険しい登山道を登った先にある、薄暗いほら穴のような祠の中に観音様がいた。思い返すと恐山のような強烈なオドロオドロしさであり、願い事をしに行くのか悪霊を祓ってもらいに行くのか、子どもにはわけがわからなかった(笑)。
しかし、そんな御利益あらたかな観音様も、いつの間にか旭山の南側に遷り、とっても綺麗で健康的な観音堂の中から庶民の願いを明るく叶えるようになっていた。アプローチも自家用車でスイスイスイ、である。遷ったのは昭和57(1982)年の2月。参道が急で危険であるという理由からであった。
 
その朝日山観世音。入試の時期には特に参拝者が多い。参拝記念の芳名や願いが書かれた大学ノートが20冊ほどあり、願がけの千羽鶴が数多く奉納されているなど、篤い信仰を集めていることが分かる。
立派な拝殿は、毎月1日と、毎日曜日に地元の当番の方が開けてくれるので、中に上がって観音様に直接お参りをすることができる。また、5月1日と10月1日には祭典が行われ、甘酒が振る舞われて賑わうそうである。
 
前置きが長くなったが、観音様に願い事をするときは、観音様に到達するまでにできるだけ苦労して行ったほうがいいとされている。観音様でなくてもお参り全般にそうなのかもしれないが、とにかく、車に乗るより歩いて、そしてその歩く距離は長ければ長いほど、よい。
私は、二男の高校合格や野球部での活躍、そして大学受験など、事あるごとにこの観音様に願がけをしてきたのであるが、何とかして願いを叶えていただこうと、その熱い親心から、
 
実家から走って行っていた(笑)。
 
その願いが叶ったか儚(はかな)く露と消えたのかは置いておいて(苦笑)、とにかく私は、交通機関を使わず、全て自分の足で赴き、参拝を続けていた。
 
実家から朝日山観世音の観音堂までは、偶然にもジャスト10kmである。長野市街地を抜け、麓の小柴見地区までが7kmほど。そこから観音堂までの3kmは、急坂も急坂。口から心臓が出そうなほどにキツい登り坂なのである。
そんな坂道を、全力で、しかし歩くようなスピードで(それでしか進めない!)駆け上がっていく(駆けれてないけど(笑))。
イノシシに出会ったこともある。ランナーとすれ違ったこともある。ここは、獣が跋扈(ばっこ)する道なのである。
 
ラスト1km。最後の力を振り絞ってスパート(気持ちだけw)し、観音堂の前でアプリを止める。ジャスト10kmである。
この10kmは、あくまで個人の感想ですが、
 
「大手町から芦ノ湖
 
な感じである(笑)。
いやいや規模としては10分の1以下ではあるが、往路で登り、復路で下る、と、まさに堂々の箱根駅伝の再現なのである。毎日のランニングを続けていることで、こんな形の楽しみが生まれるなどということは、子どもの頃の自分からは全く想像もつかなかった。まさか、家から旭山の観音様まで走って行くことになろうとは。。。
イメージは、
「恐山から箱根山(いずれもカルデラ火山(笑))」
である。人生は面白い。
 
参拝し、記帳し、願い事を胸にしまって復路に挑む。願がけついでに峠走がキッチリできて足腰がしっかりと強化されるのも最大級のコスパの良さである。
箱根のランナー気分で楽しめる最強トレーニング。それが朝日山観世音コースの最大の魅力である。

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長野市街地が一望できる魅力あふれるコース

 

登山でトレーニング〜爺ヶ岳、鹿島槍ヶ岳

「山行」という言葉がある。
国語辞典では、
① 山中を旅して歩くこと。
② 山に遊びに行くこと。山歩きをすること。山遊び。
とある。が、山専門のコミュニティサイト「ヤマレコ」の用語集では、そのほかに、
ヤマレコメニューなどでの「山行記録」は『さんこうきろく』と読み、やまゆき、やまいき、やまぎょう・・・などとは読まない。」
とあり、さらに、
「この単語の読みで、登山経験や内容などの目安がついたりすることがある。」
とある。
くれぐれも「山行」を「やまゆき」とか「やまぎょう」と読まないようにしなければ、お里が知れてしまう(笑)。
 
平成30(2018)年8月19日。私は、かねてから計画していた北アルプス日本百名山の一つ、鹿島槍ヶ岳(以下、鹿島槍という。)への登頂を実行に移した。
鹿島槍は、標高2,889m。日本百名山で、長野県と富山県の県境にあり、南峰と北峰の二つのピークを持つ双耳峰で、麓(ふもと)から見上げると「サリーちゃんのパパ」みたいな感じである。富山県側に並行している立山連峰に対して後立山(うしろたてやま)連峰と呼ばれる山脈の中にあり、「後立山連峰の盟主」と言われているのが鹿島槍なのである。また、剱岳立山と並んで日本では数少ない「氷河」が現存する山でもある。
 
そんな鹿島槍に通じるルート上にあるのが爺ヶ岳。標高は2,670m。南峰、中峰、北峰の3峰からなり、麓から見上げると「マッハGoGoGo」で主人公が乗る「マッハ号」のようである(笑)。
爺ヶ岳は、「じい」の「い」のところにアクセントがあるのが通常であるが、多くの長野県民は「じい」の「じ」のところを強く高くする頭高型アクセント(東京の「高円寺」と同じ)で発音するので注意が必要である(笑)。
 
鹿島槍への最短ルートは、黒部ダムへの入口である扇沢(おおぎさわ)から柏原新道を使って種池山荘に行き、そこから尾根伝いに爺ヶ岳経由で冷池山荘を通過して到達するコース。どちらの山荘に宿泊するかはお好み次第だが、いずれにしてもコースタイムが16時間を超えるため、通常は1泊しなければならない。
 
が、しかし、
 
ラソンの大先輩でもある高校同級生のM院長が日帰りで鹿島槍に登頂したというFBの投稿を見て、自分もいつかそこまでの体力がついたらぜひ鹿島槍の日帰りに挑戦してみたいと思っていたのであった。
そして、走行距離が増え、体力にも自信がついてきた今、それを実行に移すべし! という決断を下す勇気を得たのであった。
 
朝の5時30分。扇沢の駐車場に車を停めて爺ヶ岳登山口から登頂開始。朝の空気が冷たくて気持ちがいい。登り始めて約2時間で、種池山荘に到着。ここで北アルプスの稜線に出る。ここまでの柏原新道と呼ばれる登山道は、先代の種池山荘ご主人の柏原さんが拓いたとのこと。先達に感謝である。
快晴に恵まれ、まだ朝日とも言える太陽に向かって尾根を進むと1時間足らずで爺ヶ岳最高峰である南峰に到着。そこから登山客で大混雑の中峰を過ぎ、北峰へ向かう。北峰は山頂標がなく、判別つかないが、気にせず北に進む。
爺ヶ岳から北、稜線の先に、雄大鹿島槍の姿が見える。はるか遠くにあるように見え、手を伸ばせばすぐそこにあるかのようにも見える。不思議な距離感である。
そして、爺ヶ岳鹿島槍の中間点あたりの尾根の上に、赤い屋根の建物がクッキリと見えている。よくあんなところに建物を建てたもんだと感心してしまう。それが昭和4(1929)年開業の冷池山荘(つめたいけさんそう)である。
爺ヶ岳から1時間ほど、冷池山荘への到着は9時40分であった。ここのベンチに腰をかけ、持ってきたおむすびを頬張って、休む間もなく再びスタート。またまだ鹿島槍が近くに見えてこないので、日帰りできるか不安が残っていたのである。
途中のピーク、布引山を越えたらあとは森林限界の美しい尾根のやや急登をひたすら登って鹿島槍の南峰に到着である。南峰は、北峰よりも標高が高いので、ここで日本百名山制覇となる。
やった。
時間は11時10分。写真撮影などして少しゆっくりしてもまだ12時前であり、依然として快晴であったことから、行く人が少ない北峰を目指すことにした。南峰から北峰への吊り尾根はなかなかにスリリングで、ここまで来て事故に遭うわけにはいかないので慎重に渡っていく。南峰にいた十数人のうち、北峰に向かったのは私のほかに、いかにもトレイルランニングをしていますといった猛者が1人だけだった。
そして北峰に到着したのがジャスト12時。ここから折り返せば何とか夕方までには下山できそうだと少しホッとする。12時から向こうとこっち。午前の部と午後の部。本当にザックリとした絵的にもわかりやすい時間管理である(笑)。実はそんなわかりやすい感覚でしか掴めないほど、脳内エネルギーは枯渇していたのかもしれない。
 
景色は抜群であった。
北側は、切り立った稜線の先に五龍岳、さらに先に唐松岳、そして白馬三山。これは北峰ならではの絶景である。
東に広がる松本盆地とそのさらに先に見える山々。いつもランニングで通過する長野市川中島の国道19号南長野バイパスと国道18号篠ノ井バイパスが交わる大塚南交差点から西のど真ん中に見えるのが鹿島槍。果たして鹿島槍からは長野市川中島方面が見えるのだろうかと気になっていたが、快晴の青空に助けられて、しっかりと見えたのには驚いた。その交差点の一角にある、きのこのホクトの工場まで見えた(笑)。
 
その後は来たルートをひたすら戻る。稜線には登山客多数。年配のご夫婦が目立つ。皆さん山小屋に宿泊してゆっくりとこの山々を存分に堪能していらっしゃる。もそのような老後を過ごしたいものだとのんびり考えながら、歩みは常に速足であった(笑)。
こんなことができるのも、マラソンの練習で毎日走り続けているからである。がんばったご褒美かな、と、西に傾き始めた太陽と、富山県側に常に見えていた立山剱岳雄大な姿を目に焼き付ける。あの、高校同級生M院長は天候に恵まれずに鹿島槍北峰には到達していない。安全はやはり最優先であるので、天候などいろいろな幸運にも恵まれる必要がある。
そして、爺ヶ岳を過ぎて、種池山荘を目指して下っていた私に、さらなる幸運が訪れた。
 
ライチョウが、すぐ目の前をチョコチョコと歩いていたのである。
 
何とも言えない感謝の念とともに、私は無事に下山を終えた。特に痛みやケガもなく、ただ持参した水や食料は全て底をついていた。
時刻は17時30分。登り始めてから実に12時間が経過していた。コースタイム16時間50分のところ、12時間での踏破。もちろん、こんな「山行」は人生初であった。

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幸運に幸運が重なった人生最長の「山行」

無情なる結末〜第2回松本マラソン

私が勤めている会社の創立70周年記念パーティーが松本マラソン前々日の金曜日に東京品川の高輪プリンスホテルで行われたため、私はそこに出席した後、前日となる土曜日夜も東京の家に滞在していた。

当日である平成30(2018)年9月30日の朝に、東京から松本にダイレクトに着く交通手段がないため、私は深夜バスで早朝の長野駅に到着し、そのまま長野駅発松本行きの特急しなの号に乗り込む予定であった。

私は、長野市内を出発した金曜日の早朝から、松本マラソンに参加するためのリュックサックとともに移動をしていたのだった。

 

そして、中止が発表された。

 

第2回松本マラソンは、残念ながら中止となってしまった。台風が恨めしい。そして皮肉にも予報に反して当日のレース時間には雨風なく、強行しても大丈夫だったのではないかと思われる状況であったため、ベストなコンディションに仕上げたこの数か月がなんとももったいなく、この状態でこのまま走ったらどんな記録が出たのかを知るチャンスが永遠に失われたのかと思うと、途方にくれるばかりであった。しかし、選手やボランティアの方々を含めた関係者全員の安全を考慮すれば、中止決定は妥当な判断だったのだろうと思われた。マラソンも、家に着くまでがマラソンである。

中止の発表は、前日土曜日の夜7時ごろ。移動中の台風24号も南海上の離れたところを通過しており、まだその影響が出ておらず、開催がギリギリ間に合うかどうかといったところであった。

 

エントリー時に支払い済みの参加費は戻っては来ないが、参加賞のTシャツはゼッケンと一緒に送られてきており、また、フィニッシャータオルも後日送ってもらえるとのことだったので、運営側の誠意も感じられ、世の中どうにもならないこともある、と、納得することができた。

 

ところで、長野県は広い。そして山また山の地形であり、海がなく、それぞれの盆地や谷に存在するバラバラな文化が寄せ集まってできている。時に、長野合衆国とも呼ばれる。

「田舎どこ?」と聞かれて「長野」と答えるのは、極めてビミョーなやり取りであり、注意が必要である。「長野」とは、元を辿れば長野市の市街地の北部にある大字のことであり、今の善光寺の西から北にかけての地域を指す。長野市民にとって「長野」とは、「松本」「上田」「伊那」「飯田」「佐久」「諏訪」などに対抗する地域の一つであり、その中の最高峰であるという自負がある。

だから、松本や飯田の人が「長野」と言っているのを長野市民が聞くと、たぶん、「長野じゃないでしょ、長野県でしょ?」と言いたくなるのではないだろうか。たぶん。まぁ、松本の人は松本の人で、県内で最先端の街としての自負があるだろうから、出身地を聞かれて「長野」とは言わないはずなのである。彼らは、

「田舎どこ?」

と聞かれた場合、多くは、

「松本です。」

と答えるはずなのである。たぶん(笑)。

 

そんなような理由で、長野県で団結して何かをやろうという時に「オール長野でがんばろう!」と言うと、なかなかに差し障りというか引っかかりがあるため、そのような場合には「オール信州でがんばろう!」ということになるそうなのである(笑)。「信州大学」も然り。「信州」というのは便利な言葉である。

信濃の国、の信州。長野・飯山地方を北信、上田・佐久地方を東信、安曇野・松本・木曽地方を中信、諏訪・伊那・飯田地方を南信という。

年末にシャケを食べるのが北信・東信。ブリを食べるのは中南信。食文化が違う。イナゴは県内全域で食べられているようだが、ザザ虫は南信でしか食べられていない。

 

TV番組などでよく紹介される「長野県民はほぼ全員が県歌信濃の国が歌える」というのは、本当である。

かつて廃藩置県の直後は長野地方に長野県、松本地方に筑摩県という、二つの県が並立していた時代があった。そして、制度改正によってそれが一つの県になる時に県庁所在地が長野になり、それが筑摩県側の反発を生んで対立が激化し、県会議事堂が放火される事件が起こるなど、再び長野県を分割しようという動きが現れた。乱闘にもなりかねない異様に殺気立った状況の議場内に、どこからともなく信濃の国の歌声が響き、やがてそれが傍聴席を含めた大合唱となって危機を脱したのである。そこから信濃の国は県歌として広く県民に歌い継がれてきた、と、こういうわけである。

 

そんな、第2回松本マラソンの経験を胸に、第3回大会へのエントリーを済ませた長野市出身の私。だいぶ松本の街にも慣れてきた。

そして、改めて大会公式ホームページを見て、

「完走賞 : フィニッシャータオル、完走メダル」

という記述の下に、

「※第2回大会にエントリーしていて、第3回大会を完走された方には、第2回大会の完走メダルも贈呈」

との文言を発見。がぜんやる気に燃えてきたのである(笑)。

 

メダル2つ!

 

長野オリンピックでの原田雅彦選手や船木和喜選手のように胸に2つのメダルを下げ、そしてカチャカチャと音を立てながら松本の街を闊歩する自分の姿を想像しながら、私は明日もまた走るのであった。

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SNSの誰かのシェアで知った無情なる結末

 

シドニー五輪金メダリストの高橋尚子さんとのハイタッチ

「行ってらっしゃーい! がんばってきてくださーい!」
Qちゃんこと高橋尚子さん(以下Qちゃんという。)の励ましほど市民ランナーを奮い立たせるものはない。特に男性ランナーの立たされ方は想像に余りあるものがある(笑)。
スタートラインの特設ステージから、Qちゃんは続々とスタートしていくランナーたちに声をかける。
「私も後から追いかけますからね〜! しっかり走ってくださいね〜っ!」
ラソン大会のゲストとしてランナーを励ましてくれるQちゃん。そして、長野マラソンでは、部分的ではあるがランナーたちに混じって並走までしてくれるQちゃん。
Qちゃんの吸引力は絶大である。大柄でなく筋肉モリモリでもなく、お淑(しと)やかで女性としてフツーに魅力的でかつオリンピックの金メダリストであるというギャップを内包している稀有な存在であるQちゃん。走る彼女の周りには常に人だかりが出来ており、まるで砂場に放り込まれた強力な磁石が砂鉄を吸い集めているかのようである(笑)。
 
長野マラソンでは、Qちゃんはスタート後に最後尾からスタートし、自己申告タイムが控えめな後方のランナーたちを励ましながら前へ前へと走る。そして14.6km地点の落合橋でワープする(車に乗り込む)のである。
そしていちばん苦しい33km地点の赤坂橋でランナーたちをハイタッチで迎え、そこからそのままゴールまで走ってくれる。
青梅マラソンでもやはりいちばん苦しい21km過ぎの復路ほぼ唯一の登り坂で、ランナーたちをハイタッチで迎えて励ましてくれる。
ランナーにとって、Qちゃんからもらうエールは、それが時に厳しめの叱声になることもあり、ランナーたちにとって何物にも代え難いモチベーションとなるのである。
 
モチベーションというのであれば、ランナーたちにとって、ある意味沿道の応援全てがモチベーションに繋がる貴重なエールであると言える。ここで敢えて基本的なことを言うが、沿道の応援は、非常にありがたいものなのである。
「イェーイ!」
「がんばれ〜〜っ!」
沿道からの声援、そして繰り返す手と手のタッチ。そこからもらえるエールは、ランナーたちの背中を押す、第2の脚力、第3の心肺機能であると言っても過言ではない。
 
ラソンなどのレースを沿道で応援した経験のある人は分かると思うが、目の前をランナーたちが次々と走り抜けていく中、お目当ての選手を見つけるのは至難の業なのである。
しかし逆に、走る選手の側から見ると、沿道で応援してくれている人の顔は、一人ひとり手に取るようにその表情までもが実によく見えるものなのである。例えばスタートゲートの脇でゲートが倒れないように支えている製作会社の高校同級生K専務が今日はいつもよりにこやかだなんてところまでわかる(笑)。
今は「応援navi」などという、お目当てのランナーが今どこを走っているのかが一目でわかる便利なアプリがあるので、それを活用して応援するのもいいと思うが、沿道で応援する場合は、応援したいランナーに 、
「どこどこに居るからね!」
「どこどこで応援してるからね!」
と予告をしておくのが一番安全かつ確実な方法である。
 
ちょっとここで考えてみたい。そもそも応援者は、ランナーに触れてもいいのだろうか。ルール的にどうなのか。ランナーに触れてしまって問題はないのだろうか。
野球では、走塁中のランナーにベースコーチが接触をしてはいけないことになっている。それは、日本の公認野球規則の6.01(a)(8)に記載された「肉体的援助」と呼ばれるれっきとした反則行為である。
プロ野球でホームランを打った後に、バッターランナーが三塁ベースコーチとハイタッチをしてからホームインするケースがよくあるが、ルールに厳格な高校野球などではそれは許されない。少年野球でもそのような場面はない。「肉体的援助」は、厳に慎まなければならないのである。
ラソン箱根駅伝などで、フラフラになった選手にコーチが触れないよう声掛けだけを行っている場面を見かけるが、ラソンの場合は日本陸連競技規則」の「道路競走」の部にそれに関する記述があった。
 
「競技者が転倒や意識混濁、疾病等により走行困難となって歩行、立ち止まり、横臥等の行動に移った場合、審判員や大会医療スタッフは必要に応じて介護を行う。このために一時的に競技者の身体に触れることは、助力とは見なさない。」
 
同じく日本陸連の駅伝競走規準第11条にも記載があった。
①競技者は競技中、いかなる助力も受けてはならない。
②人または車両による伴走行為は、いっさい認めない。
③正常な走行ができなくなった競技者に審判員や大会医療スタッフが声掛けを行な(原文ママ)ったり、一時的に介護するために競技者の体に触れたりすることは助力とはみなさない。
 
なるほど。
どうやら一時的に触れるところまではセーフらしい。
 
「触れる」とか「肉体的援助」などというと何だか艶めかしいが、ここで思い出した「私がなぜ毎日走っているのか」、そしてもっと言うと「私が何のために長野マラソンを走っているのか」ということについて、コッソリかつサラリと書いておこう。読者の皆さんにおかれては、くれぐれもここだけの話としていただき、間違えてもシェアなどすることのないようお願いしたい(笑)。
 
それは、会社のマドンナR子さんが、毎年長野マラソンを沿道から応援してくれるからなのである(笑)。
12km地点。応援メッセージが書かれた小さなボードを持って、「がんばれ〜っ!」と、応援してくれているR子さん。可愛い。かなり遠くからでもすぐに見つかる(笑)。
そのR子さんは、手と手のタッチの後、その手をむぎゅーっと3秒くらい(あくまで体感時間です(笑))握ってくれるのである。その温かくて柔らかな手から発せられたエールで、私は毎年がんばっているのである(笑)。少なくとも30km地点までは(苦笑)。サブフォーを目指している私にいつも「サブスリーがんばれ!」と言って譲らない独特な感性を持つR子さんには、私のサブフォー達成のため、今年はぜひとも10秒ほどむぎゅーっとしてほしいものである(笑)。
 
逆単身赴任で妻に怒られない生活が5年目に入った私。気がつくと怒られることがないかわりにちょっとしたスキンシップもなくなってきているような気がする。
一方で、Qちゃんとのハイタッチは、これまで4度参加した長野マラソンで8回、2度参加した青梅マラソンで2回を数えている。もしかしたらここ数年、妻とのタッチの回数や時間よりも、Qちゃんとタッチしてる方が多いんじゃないか(笑)。そしてそのことに共感する危ない同級生の何と多いことか(笑)。
 
皆さん、家庭での「肉体的援助」は大丈夫ですか?(笑)

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手と手でタッチするレース中のスキンシップは大きな力になる