なぜ私は毎日走っているのか。フルマラソン・サブ4(サブフォー)への道

50歳を過ぎた普通のサラリーマンが、ある出来事をきっかけに毎日走り続けるそのモチベーションの数々。

登山でトレーニング〜白馬岳

北アルプスで最もポピュラーな山といえば、すぐに白馬、槍、燕などが頭に浮かぶに相違ない。私の母校の長野中学(今の長野高校)の校歌にも、「山また山の遥かたに そびゆる白馬の雪の峯」という一節がある。昔の長野中学のあった場所(今の信州大学教育学部)からは、全然見えないのだけれど、白馬という、そのすがすがしいイメージにこの作詞者は若々しい少年達の夢を託したのだろう。」

「高校時代の校歌の1番に歌われていた白馬岳2,932m。13座目となった日本百名山は、ピーカン予報のこんな日に山に登らない手はないよねという山男・山ガールで涼しい大雪渓も大賑わいであった。」

前者は、私が尊敬する先代のカシヨ株式会社会長清水栄一氏著『信州百名山』の「白馬岳」部分の冒頭。後者は、恥ずかしながら「白馬岳」登頂後にアップした私のSNS投稿の冒頭である(笑)。並び立てるのもおこがましいが、事実として年齢差47歳の2人がまるで打ち合わせたかのように、母校の校歌「山また山」に歌われた白馬岳を頭に持ってくる。白馬岳(しろうまだけ)は、そんな我々の胸の奥に常に去来する大きな存在なのである。
後立山連峰の北部に位置し、白馬鑓ヶ岳、杓子岳とともに白馬三山と呼ばれる白馬岳。その姿は北アルプスを代表する美しさをもつと言われている。

白馬岳の名は、春の雪解けで岩が露出し「代掻き馬」の雪形が現れることから「代掻き馬」が「代馬」となり「しろうま」となったとのこと。「白馬」は当て字であるから「はくば」と読むのは本来は誤りだが、白馬村白馬駅に始まり、白馬山荘をはじめとする「白馬」がつく山小屋名もすべて「はくば」と読むのが正式である。現在では山や雪渓の名称と高山植物の名称以外のほとんどが「はくば」であり、全ての「白馬」のつくスキー場も「はくば」。地元村民も山の名も含めて「はくば」読みをする人が多いが、なぜか登山者は「しろうま」派が主流。私もそれに倣って「しろうま」と呼ぶことにしている(笑)。

令和元(2019)年9月7日(土)。快晴との天気予報に背中を押され、朝5時に長野市内の実家を車で出発し、登山口である猿倉荘に6時30分に到着。唐松岳五竜岳に登った時に入った八方尾根の入り口を通り抜け、そのまままっすぐ白馬岳に向かう一本道だったので、迷うことはなかった。朝早くから登山客で賑わっており、漂う「メジャーな山」感に少し安心する。
雲一つない青空。遠くに白馬三山の頂が見える。頂を見ても圧倒されたり気持ちが萎えたりしないのは珍しかった。樹々の緑と空の色がワクワクする気持ちを昂らせ、未踏の地の不安を消してくれていたのであろう。グループで登る登山客の楽しそうな声も実に清々しかった。
ハイキングをするような感じの優しい登山道を1時間ほど登ると、標高1,560mの白馬尻小屋に着いた。さぁ、いよいよ本番である。大雪渓についての様々な注意書きの看板を見て、白馬岳登山の実感が湧いてくる。それまでは八方尾根から遠く北に連なる白馬三山を眺めるばかりであったが、いよいよその入口に取り付いたのである。唐松岳からの下山で「白馬岳から来ました〜」という男性2人組と会話をした時に「いつかは(白馬岳に)行かなきゃいけないな」と思ったことも、脳裏に去来する。

この日本最大の雪渓である白馬大雪渓は、全長3.5km、標高差が600m。真夏でも人気があり、雪渓を登る行列の写真を何度か目にしたことがある。しかしここまでは、なんてこともない木々に覆われた普通の山道。本当にそんな巨大な雪の塊が、この夏を終えた季節になってもなお存在しているのか、渓谷の先が見通せない状況では、まだ少し半信半疑なところがあった。ただそれは逆にワクワク感を増幅させる効果もあり、いてもたっても居られずに先を急ぐ足取りに力が漲るのだった。

雪だ。どんどん雪の塊が見えてくる。土が混じってマダラになってはいるが、明らかに巨大な雪の塊がそこにはあった。風が冷たくなる。空の青さとのマッチングも本当に気持ちがいい。
登山客多数。見通しがいいのでかなり先まで見通しがきく。男性も女性も、グループも、皆アイゼンを装着するために思い思いの場所で座っている。装着した後は、何となく一列になって進む。蟻の動きに近いんだろうなー、と考える。
私はいつもの4本歯、プチアイゼンを装着して蟻の行列に加わる。大きな口を開けた雪の割れ目に気をつけ、一歩一歩踏みしめていく。季節外れの雪。夏の終わりにこの雪行は本当に嬉しい。
思ったより女性が多い。カラフルなウェアは見ていて気持ちが華やぎ、知らず知らず自分好みの出で立ちの女性を目で追うようになる。この時は小柄な割に足取りがしっかりとした黄色い短パンの女子に目が行っていたような気がする。

大雪渓は、通過まで約40分間。アイゼンを外して振り返るとその景色もまた圧巻。東京から来たという女子2人組にシャッターをお願いして雪渓をバックに写真を撮ってもらう。よく見ると、雪渓の向こうに北信五岳の飯縄山戸隠山、そして美しい高妻山が美しくない方向から見えていた。これまで飯縄山頂から白馬連峰はよく見てきたが、今はその逆である。何とも不思議な感覚である。
9月なので花は咲いていないものの、いかにもお花畑ですといった緑の絨毯と岩場が織り交じった登山道が続く。ここで休憩をしていた小柄で白髪、私より少し歳上かなという神奈川県から日帰りで来ているというzuppyさんとしばし会話を楽しむ。

「こんないい天気の日に山に登らない手はないですよね〜。」

zuppyさんは、昨夜車で出発し、朝仮眠をとってからの登山だという。タフガイである。そしてしかも今日はこれから白馬岳を越えて栂池の方に下りていく予定とのこと。大丈夫か。白馬は今日が初めてなので今一つ距離感がわからない私はただただ驚愕するのみであった。そもそも自分が無事に白馬ピストンを終えなければならない身である。どうやって車を停めてどこまで何で移動したらそんなルートでの山行が可能になるのかを聞くと長くなりそうだったのでやめる(笑)。

そして登り始めてから約3時間。ついに山頂間近の山小屋、日本最大の収容人員を誇る白馬山荘にたどり着いた。休憩もそこそこに、力をふりしぼってすぐそこに見えている山頂までの道を急ぐ。距離にして1kmくらいだろうか。山頂が見えているだけに、体の重さが倍に感じる。振り返ると、雪渓で見た黄色い短パンの女の子がこちらに進んでくるのが小さく見えた。いつの間にか私が先行していたようだ。しかし彼女の足取りは軽い。

「休むわけにはいかない」(笑)

ここで休むと、確実に彼女に抜かれてしまう。ギリギリとはいえ、フルマラソンサブフォーを達成した私が、ここでそんな小柄な女の子の後塵を拝するわけにはいかないではないか(笑)。
3,000m近い高地である。息が苦しい。ひと月ほど前の富士山を思い出しながら歯を食いしばる。

着いた。山頂だ。360度の壮大なパノラマ。晴天がもたらす最高のプレゼントだ。これだから山登りはやめられない。
ぐるっと1周をする動画撮影をすると、そこに黄色い短パンの女の子が映り込んでいた。もう着いていたのか。やはり彼女は速かった。私は彼女に敬意を抱き、躊躇いなくシャッターを依頼したのであった。彼女は自らをO社長と紹介した。会社を経営しているのかと思ったら、昔からのニックネームだという。偶然にも、彼女は長野市内から来ていた。

山頂からは、白馬鑓ヶ岳、鹿島槍ヶ岳槍ヶ岳の三本槍と湖水をたたえた黒部ダム立山剱岳がワンフレームに収まる形で見ることができ、遠くは八ヶ岳と富士山が背比べ。そして北西側に目をやると何と眼下に富山平野とそこを流れる黒部川、その先の富山湾、またその先の能登半島という晴天ならではの稀有な眺望を堪能することができた。さすがに素晴らしい日本百名山白馬岳2,932mである。
やがてzuppyさんも山頂にやってきたので言葉を交わす。申し出てシャッターを切らせていただいた。その後のヤマレコを見る限り、彼は無事に栂池ルートを踏破できたようである。

下りの雪渓も終わりに差し掛かったころ、やや遠くから、カメラを構えた男性に声を掛けられた。
「速いですね〜。あっという間にここまで降りて来ちゃいましたね。」
彼は雪渓周りの風景を撮影しているらしく、我々2人をずっと見ていたようだった。
「今日は(条件が)最高ですねーっ!」
O社長と私は少し声を張りながらカメラ男性と言葉を交わす。看護師である彼女は、砂利に足を取られて転倒してしまった年配登山客に駆け寄り手を差し伸べるなど、その気遣いがいかにも専門職といった気品を纏いつつ、終始あっけらかんとしていた。看護師には登山やマラソンをする人が多い。
「うーん、私はマラソンより山かな。」
と言う彼女は、今テント泊にハマっているとのことで、そのプロセスを聞かせてくれた。

本当に楽しかった白馬岳。いろいろな意味でいい山であった。これだから山登りはやめられない。

駐車場で別れる時にO社長に勧められた5kmほど下の「おびなたの湯」にゆったりと浸かりながら、今度は白馬鑓ヶ岳中腹の標高2,100メートル地点にあるという彼女一推しの白馬鑓温泉小屋に行ってみようか、そしていつかは栂池方面にも行ってみたい。と、白馬に魅せられた私の思いは夕焼けの準備で色が変わり始めた青空を眺めながらとめどなく膨らんでいくのであった。

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写真中、正しくは「白馬鑓ヶ岳」です。



         

登山でトレーニング〜五竜岳

「それはそれは厳しい登山でした。ちょっと自分を褒めさせてください。」
五竜岳2,814m。2019(令和元)年8月25日(日)、12座目となる日本100名山の登頂に成功した私は、その日の投稿で思わず安堵のため息をついたのだった。

北アルプス鹿島槍ヶ岳とともに後立山(うしろたてやま)連峰の重鎮的存在である五竜岳。1908(明治41)年7月に登山家として初めてこの山に登った三枝威之介一行が地元の案内人からその名を「ゴリョウ」と聞き「五竜」と発表したと言われている。ゴリョウとは、雪解けの時期に雪形が作る「武田菱」(武田家の家紋)の別名「御菱(ごりょう)」とも、立山の音読み(ごりゅう)とも言われており、定かではない。
この日私は、東側正面五竜スキー場からの登山道である遠見(とおみ)尾根は使わず、唐松岳登山で一度行ったことのある唐松山荘からのルートを使って往復することを選択した。理由は、初めての道は怖いから(笑)。
登り初めは八方尾根。晴れていたのでTシャツ1枚。そして八方池付近でやや冷えてきて長袖を着用。ここから先は雲に覆われた白い世界を進んでいく。そして唐松山荘付近でさらに気温が下がって4℃となりウインドブレーカーを着用。未知の道の怖さは唐松の尾根までは回避できたが、ここから先は未知の道と未知の寒さのダブルパンチで最後にはかじかむ手をこすりながら進むという夏とは思えないまさかの寒さと戦う山行となった。
ここから先、つまり唐松山荘を唐松岳とは反対の左側に曲がった先は、上級者の世界。怖い怖い怖い。戸隠連峰の終点である一不動からそのはるか先に聳える高妻山を目指す上級者を、敬意と羨望の眼差しで見送る若い頃の自分が脳裏に蘇る(笑)。そしてそんな自分がその先に一歩を踏み出す、といった恐怖(伝わらなかったらごめんなさい(笑))。
しかしその恐怖は、わずか数メートル先で聞いた雷鳥の鳴き声で少し和らぐのであった。私は駆け戻り、そこに居た唐松山荘のスタッフのお兄さんに問い質す。

「この先で、カエルの鳴き声が聞こえたんですけど、こんなところにもカエルっているんですか?」(笑)

お兄さんによると、カエルのようにゲコゲコと鳴くのはオスで、メスはもうちょっと鳥っぽい鳴き声で鳴くんだそう。なるほど。初めて聞いた特別天然記念物の声であった。

道は狭い。というか、切り立った岩の壁をひたすら横移動していくと言った方が正しい。曇っているので下界が見えず、恐怖が増幅する。鎖は常にある(苦笑)。
しばらくするとラッキーなことに「風と共に尾根の雲が去りぬ」。ザザーっと音を立てて雲が一気に晴れていく様子はスピード感が半端なく、撮影した動画がまるでミュージックビデオでよく使われる早送りの映像のようであった。その隔世感に酔い、しばし恐怖を忘れる。
岩の壁を抜けて気持ち良い尾根道を進み、白岳(しらたけ)2,541mを通過すると、眼下に山荘が見えてきた。五竜山荘である。ここまで、唐松山荘から約1時間半。そして目指す五竜岳は、この先さらに1時間。急登を考慮すればこの山荘はほぼ中間点となる。
山荘の玄関に大きく掲げられた四つ菱のマークに目が留まる。「なるほど、モンベルがスポンサーになっているのかここは。モンベルを使っている人は、五竜岳ファンが多いのかな。」などと見当違いなことをこの時考えていた私は、武田菱のことも、モンベルのことも、そしてその両者の違いなども、全く知らなかったのである(笑)。
1975年、辰野勇氏が創業した日本最大級のアウトドアブランド「モンベル(mont・bell)」のロゴは、縦。「武田菱」は、横、である。まるで、ハッシュタグ(#)は水平、シャープ(♯)は右肩上がり、みたいだ(笑)。
そしてこの山荘の先にあった立て看板を見た時、私の恐怖は最高潮に達する。

  上部は険しい岩場です
  往復2〜3時間かかります
  雨具等身を守る装備を
  持っていきましょうね
  五竜より先はさらに険しく
  逃げ道はありません

そう。既に逃げ道はないのである。
山頂から時折雲が切れて見えるその先の鹿島槍ヶ岳に連なる八峰(はちみね)の稜線と呼ばれる尾根道は、鋸歯状の突起が連なっており、ここは生涯通らなくてもいいかなと思ってしまうほどの恐ろしさであった。
山頂標は、数日前の雷撃で真っ二つ。寒さもあり、記念撮影もそこそこに、クルリと踵を返して八方尾根に向かったのであった。くわばら、くわばら。

しかしながら、無事に下山してみて思うのは、天候が良ければもしかしたらもしかして、五竜岳は、戸隠山に近いスリリングな岩場と、妙高山に近いバラエティに富んだルートを兼ね備えた最高にアドベンチャブルな素晴らしい山なのではないかということ。ま、しばらくはお腹いっぱいで足は向かないと思うのだが。

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この時はTOKYO2020に何の疑いも持っていなかった。


登山でトレーニング〜富士山【後編】

日本百名山の中で一番高い山、富士山。標高3,776m。幼い頃から夢に思い描いていた富士山。幼稚園児だったころ、3時のおやつで出た富士山羊羹の美味しさに魅せられて知った富士山。世界遺産富士山。マウントフジ。

令和元(2019)年7月28日(日)、そんな世界に誇る富士山の登頂に成功した。それは53歳と363日目の出来事であった。

10:16 (9:25に) 八合目に入ってからなかなか九合目に着かず、身体が全く動かない状態で不安と疲れに包まれたまま、点々とある山小屋の店の前に置かれたベンチに腰を下ろして休憩することにした。持参した「塩+アミノ酸オレンジジュース」のパックを一気に飲むと、呼吸が少し楽になるとともに身体も動くようになる。
10:24 腰を上げ、歩き始めると、山小屋のメンテナンスをする男性2人組の姿を見てしまう。しまった。ランニング中もそうなのだが、
「働いている人に遭遇すると後ろめたくなる病」
の私は、途端に後ろめたくなる(笑)。山小屋の山側の屋根に積もった土を丹念に除去していた彼ら。それにしても、この空気の薄い高地でよくもそんな力仕事ができたものだと本当に感心してしまう。
10:34 「御来光館」という山小屋があり、それっぽい雰囲気の場所に着く。何人かの登山客が山小屋前のベンチに座って休憩しているので、ようやく九合目かと思ってよく見たら「八合五勺(ごしゃく)」との看板。
「米かよ!!!(笑)」
と心の中で大ツッコミをしてさらに歩く。休んでなんかやるもんか(笑)。それにしても九合目が遠い。
10:40 山肌が赤い。そしてまとまった残雪が見える。10歳の頃から活動をしている神楽保存会の太鼓のお囃子に出てくる「富士の白雪」。これが実物である。しばし疲れを忘れて感慨に浸る。
10:45 苦しい苦しいと必死に登っていると、実に自然な流れで、近くにいた背の高いXevi Chaseさんとスラリと美しい妹、そしてその新婚のハズバンドというスペインはバルセロナからの3名様ご一行と言葉を交わすようになった。共に励まし合いながら登る。これはかなり力をもらうことができた。ここに来てナイスフレンズの登場である(名前は最後まできちんと読めなかったが(苦笑))。
Xeviさんは、確実に足取りが私よりも速い。いつの間にか先に行っており、そして私を待ってくれる。と思ったら、実は妹夫婦を待っていたのであった。スラっとした美人の彼女のペースがちょうど私と同じくらい。そのご主人はやや遅いかなという感じ。マラソンのペースと同じで、登山にも人それぞれペースがあるということが、リトマス試験紙で炙り出されるかのように容赦なくわかってしまう、そんな3,000m超級の世界であった。
それにしてもXeviさんは慣れている。登山者の中でただ1人半袖Tシャツ1枚という軽装で、軽やかに九十九折(つづらおり)の登山道を右に左に折り返していく。スペイン語はadiósしか知らないので英語で聞くと(笑)、彼は既に本日4回目の富士登山とのこと。慣れているはずである。なぜそんなに数を重ねられるかというと、

「とにかく富士山が好きだから。」

と言う。なるほど、日本人でなくてもこれだけ人の心を動かす魅力を持つ富士山に、改めて畏敬の念を抱く。年下で、かつ、外国人である彼にも私は素直に敬虔(けいけん)な気持ちを抱く。その気持ちを込めて私は彼を「マスター」と呼んだ(名前が読めないので(笑))。
彼らは昨夜、山麓に宿泊し、今朝登山開始。よく聞くと、彼は日本在住であって埼玉か千葉か多摩か忘れたがその辺りの地方都市でスペイン語の教師をしており、来日した妹夫婦を日本観光に案内しているんだとのこと。日本に来て富士山。最高だ。最高峰の日本観光。というか今思うと彼らはもしかしたらハネムーンだったのかな。記念写真を撮影したままその後の交流がないのでわからないということもあって、気の利いた祝福の言葉をかけてあげられたかどうかは、もう記憶がなく残念だが、とにかく最高峰の日本観光をした2人である。幸せに暮らしていないなどということがあろうはずがない。
思い出した蕨(わらび)だ。埼玉だ。
11:07 山肌いよいよ赤く、登山道も真っ赤っか。隕石のようなガラガラとした岩が積み上がった状態のところにロープが張ってあり、枕木や岩でで所々階段が作られている。勾配もかなりキツい。苦しいです。苦しいです。
11:19 「(山頂まで)あと少し!」と、マスターXeviが私に声をかけてくれる。「あと少し!」は、ここ富士山で覚えた日本語だという。なんだか嬉しくて泣きそうになる。白い鳥居と白い石の狛犬が山頂手前の目印。力を振り絞り、急で大きな石段を踏みしめていく。

11:20 着いた。
「宮奥上頂山士富」という看板を掲げたいかにも昭和といった建物があり、隣接して土産物店とその店の前のたくさんの木のベンチ。思わず笑みがこぼれる。嬉しいです。
11:37 売店脇を少し歩いて火口が見えるところに移動。パックリと口を開けた火口は残雪が所々にあり迫力満点である。火口の周囲をグルっと1周すると約1時間。行こうかどうしようかこのまま下山しようか一瞬悩んだが、せっかくここまで来たのだからと1周することに決めて時計回りに歩き始める。礫岩と言うのだろうか、赤く細かな軽石が敷き詰められたような道を進む。何とも宇宙的であった。
12:00 静岡県側からの山頂に到着。そこには「頂上浅間大社奥宮」と「富士山頂郵便局」があった。富士山頂郵便局限定かもめ〜る3枚セットを購入し、東京の自宅、妻の実家の両親、自分の実家の母にハガキを書く。軽く頭痛がするのとここまでの疲れとで、1枚書き上げるのにかなりの時間がかかってしまった。受験なら不合格のパターンである(笑)。
12:18 火口周辺はなだらかなのでハイキング気分。ポツリポツリと歩きながら妻に電話をする。通じた。ここにきて初めて自分が今富士山頂に来ており天気も良く最高の気分であることを彼女に伝えたのだったが、こちらのハイテンションは全く伝わらない(笑)。叱られなくて拍子抜けであった。むしろ逆に心配もされていないのかと心配になった(笑)。
12:24 目の前に小高い丘。そしてその上に建つ気象観測所へと進む。100mほどの上り勾配は、昨年妻と行った小田原城天守閣に向かう登りの石段という雰囲気だったが、身体が全く動かなくなりとにかく一歩また一歩と踏みしめるようにしか進めない。
12:31 やっとの思いで気象観測所に到着。そしてここが日本最高地点の「剣ヶ峰」であることを知る。3,776mに着いた感動はあまりなく、持参したカルビーポテトチップスもさほどパンパンになっておらず、岩の上に腰掛けて、持参したおむすびを淡々と食す。
12:48 下山前に、忘れてはならない山頂標での記念撮影。中国からのカップルにシャッターをお願いしたところ、「はい、チーズ」のタイミングの「チ」のところでカシャっと撮影されてしまい表情作る暇(いとま)を与えられずビックリ(笑)。中国時間なのか。続いて今度は国旗と思しき旗を掲げた4人の若者グループから私がシャッターを依頼される。「はい、チーズ」の日本時間で撮影。どこから来たのかと聞くと「インドネシア」との回答。そうか、赤と白で上下に分割されたデザインの国旗はインドネシアのそれか。世界で最も多いイスラム教徒を抱える国、ハラール認定が行われる国。覚えておこう。よくぞ観光地にこの富士山を選んでくれた。というかウエルカムトゥージャパン! 私は彼らとガッチリ熱い握手を交わすのだった。
13:16 グルっと1周回って元の位置に帰還。さぁ、下山開始である。ここまで約6時間を消費しているので想定タイムテーブルからは押し押しの状態。転がるように「須走(すばしり)」で駆け下りる。登山道にもその名が刻まれているように、須走とは、富士山特有の下山テクニックのことなのである。事前の情報でそのことを知っていた私は、こんな感じかな? こうかな? どうかな? と、手探りで須走ってみる。慣れてくると、これがまた実に楽で速くてそしてサーフィンで波に乗っているかのような気持ち良さであった。
「ザーっ! ザーっ! ザーっ!」
14:27 六合目まで下りてきた。登りでは気づかなかったが、トイレがズラーっと大小かつ男性用女性用10個ほど並んでいた。が、ここまで来たら止まるのも惜しいし100円を支払うのもバカバカしいのでそのまま五合目までダッシュ。さらなる加速を行った。
14:47 五合目に帰着。下りは何と1時間半。登りであそこまで苦しめられた日本の最高峰を、長野市民の憩いの山である飯縄山(いいづなやま)1,917mと同レベルに引き摺り下ろす快挙であった(笑)。そして土産店の散策や休憩もそこそこに、向かったのはトイレ。何と朝来た7:40分以来7時間振りのトイレであった。スッキリ。
17:00 甲府市中心部。国道20号を進む。目がギンギンして全く眠くない。
19:19 国道20号がパタリと終わる塩尻市内の交差点。
21:03 ギンギンで眠くない状態のまま、長野市内の実家に無事到着。お見事、日帰り富士登山が完成。忘れないうちにプリントした撮影写真をスクラップ帳に貼って思い出の一冊にすることを心に決める。タイトルはズバリ、

「富士山は赤かった!」

とした。
制覇した日本百名山はこれで11座となった。

[了]

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別世界の山頂で約2時間の滞在。満足満足。


        


登山でトレーニング〜富士山【前編】

日本百名山の中で一番高い山、富士山。標高3,776m。幼い頃から夢に思い描いていた富士山。幼稚園児だったころ、3時のおやつで出た富士山羊羹の美味しさに魅せられて知った富士山。世界遺産富士山。マウントフジ。

令和元(2019)年7月28日(日)、私はそんな富士山の登頂に成功した。それは生まれて53年と363日目の出来事であった。
富士山というと、ご来光を拝むパターンが有名であるため、必然的に宿泊を伴う登山というイメージである。その時点でハードルが高くなってしまい、行ってみようかという気持ちが湧かず、50歳を過ぎるまで富士登山は私の人生に全く縁のないものであった。がしかし。
縁というのは実に不思議なものである。平成30(2018)年8月26日(日)、長野県北部の中野市というところにある高社山(1,352m)の山頂で出会ったkekeさんたち4人グループの皆さんとの会話の中で、
「富士山は、全然日帰りで行ける」
ということに気付かされたのであった。富士山の存在がいわゆる他人事から自分事に転化した瞬間である。そしてそこ、高社山は、別名を高井富士という。縁だ。
ラソン大会にも出場するという4人。「その脚力なら全然大丈夫大丈夫」と、私の富士山行きの背中をグッと押してくださったのだった。ありがとうございます。
それからというもの、丸一日ガッチリ予定を空けられる日を探しながら天気と睨めっこをして、来るべき日を待ち構えていたというわけである。そして翌年の夏、ついにその日がやってきた。
午前2時に長野市内の実家を出発し、午後9時に帰着という締めて19時間の日帰り旅。単調かもしれないが、どんなタイムテーブルで日帰り富士登山が為されたかを知っていただくことに重きを置きつつ話を進めさせていただくこととしたい。

5:10 白樺湖経由で国道20号甲府市内から富士山の勇姿を初めて見る。
6:05 河口湖大橋を渡り、コンビニ駐車場でルート確認。
6:30 富士山パーキングに到着。1台1,000円。ここで、マイカーで5合目まで行くことはできないことを知り、やむなく車を停める。シャトルバスに乗るしかない。何という下調べ不足であろうか。いきなり先行きが不安になる。次のシャトルバスは7時発なので、駐車場にて2kmのランニングを敢行。誘導員のおじさんに「がんばるねぇ。」と褒められる(笑)。
7:00 シャトルバスで駐車場を出発。往復2,000円。
7:40 スバルライン5合目に到着。時間がもったいない。トイレ小を済ませてすぐに登山開始。
7:55 車道のような広い登山道を小走りで進む。まだ本格的な登山道という感じではない。山中湖が見えてくる。その先に広がる雲海が美しい。ゴルフ場にしては大きいなと思ったら自衛隊の演習場であった。
8:00 六合目に到着。協力金1,000円を支払って「富士山保全協力者証」をゲット。厚さ5ミリの長方形の小さな木片に文字とイラストが焼きで刻印されている。付属の紐でリュックに装着し、意気揚々。周囲を見回すと登山者はほぼ協力金を支払っている感じだった。
8:05 九十九折(つづらおり)の登山道をスタート。木がなくなり山頂方向の視界が広がる。天気晴朗気分上々。さぁ、いよいよ出発します!!
8:42 単調な九十九折。なまじ見通しがいいだけに、先が気になって上ばかり見ているので首が痛くなってくる。
9:05 ようやく七合目に到着。一合進むのに1時間。この先のことを考えるとやはり富士山は甘くないなと、ここで褌(ふんどし)の紐を締め直す。登山道に沿って宿場町のように山小屋がいくつかあり、これが富士山の山小屋かぁ、と興味津々。時間帯的に宿泊客は出払っており、ひととおり掃除が終わった感じの室内を覗くと床がピカピカだったり壁がオシャレだったりと意外と綺麗に整っていてびっくり。頭の中にある映像は、子どもの頃に見たかなり昔のニュース映像なのかなと認識の上書き保存をする。
9:12 登山道が徐々に岩山のように変化。勾配も急になってきておりキツくなってくる。
9:25 八合目に到着。早かった。「是ヨリ八合目」という看板を目にし、そうか! 何合目というのはある地点ではなく、ある地点からある地点までのことを指すのかと気づく。子丑寅、、と時間を呼ぶのも同じ。ある時点からある時点。それを4分割して丑三時(うしみつどき)。なるほど江戸時代以前の感覚が残っている。京都市内の住所の区割りも道路の真ん中だよなー、なるほどねー、などと考えごとをしながら一定のペースを守って進む。
9:58 海抜3,250mの看板を発見。これまで3,000m超の山に登った経験がないので、この時点で人生最高到達地点記録であることを知る。この先一歩一歩が記録更新の一歩となる。
「いまの場合、一里行けば一里の忠を尽くし、二里行けば二里の義をあらわす。尊王の臣子たるもの一日として安閑としている場合ではない。」
と挙兵し自らの軍を鼓舞した長州の救世主高杉晋作の気分で登山道を踏みしめる(笑)。というか、日本第2位の北岳の標高3,193mをも既に上回っている。ちょっとこれはかなりドキドキする。
10:05 苦しい。富士山に登る以外体験できない領域に足を踏み入れているということを知ってしまったからか、とにかく苦しい。振り返って下を見ると、綺麗に広がる雲海。確かにこんな景色は飛行機に乗った時しか見たことがないかもしれない、と思う。いや、雲海だけなら北アルプスや北信五岳で十分体験しているはずなのではあるが、この時はそんな冷静さすら欠いていたような気がする。見るもの見るもの「うわーっ! うわーっ!」という感じであった。
10:15 八合目の上の方に来てはいると思われるが、なかなか九合目に着かない。登山道が時折、幅の広い石の階段になるが、身体が重くて全く動かない。一段一段をヨイショ、ヨイショ、と進んでいく。霧が出てきて視界も少し悪くなり、前方にポツリポツリと見える登山者も私同様、ゆっくりゆっくりとした動き。それを見て、

「あー、(こんなに身体が動かないのは)俺だけじゃないんだ。」

と安心する。
しかし、こんな状態で果たして山頂まで辿り着けるのだろうか。目の前の景色はまるで死霊(ゾンビ)がさまよう映画のスクリーンのようであった。
[後編に続く]

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     とにかく未体験が満載の富士山

 

        

ランニングコースいろいろ〜「となりのトトロ」コース。

何を隠そうれっきとした東京都民である私の家は、東京都内にある。いや、正確に言うと「都内」ではなく「都下」。つまり23区内ではない多摩地域清瀬市という人口7万5,000人の町にある。ここ、大事です。
長野市の人間にとっての「長野」が長野市若しくはその近隣をイメージする呼称であるように、23区内の方々にとって多摩地域の市町村はある意味というかほぼ「東京」ではないのである(映画「翔んで埼玉」参照(笑))。
三方を埼玉に囲まれた清瀬。どこに行くにも埼玉を通らなければならないと言っても過言ではなく、日本の大多数の人は清瀬市は埼玉県だと考えているきらいがある。対象的に、三方を横浜市などの神奈川県に囲まれているにもかかわらず、きちんと東京都であると思われている南側の町田市がうらやましい。
そんな清瀬市での暮らし。長閑な中に、ある緊張を強いられるのである。それは、
 
   巨匠・宮﨑駿とすれ違うリスクがある
 
ということなのである(笑)。
リスクというか、これはむしろラッキーで光栄なことなのだが、この5年間長野勤務で清瀬滞在は土日に限られている私でさえ、既に3回遭遇している。そのうちの1回は自宅からわずか100mの至近距離。つまり、巨匠・宮﨑駿は、その辺をフツーに散歩しているのである。こちらが車に乗っているなど、条件的に声を掛けさせていだだく環境でなかったこともあり会話はまだないものの、それはかなりのリスクである。油断がならない(笑)。
そう、巨匠・宮﨑駿は、ここ清瀬から東村山に広がる武蔵野の森を拠点にして「となりのトトロ」をはじめとした数々の名作を世に送り出しているのであった。
今回ご紹介するのは、その「となりのトトロ」に登場する「七国山」のモデルである八国山緑地を経由するランニングコース。主人公のサツキとメイの母が入院している「七国山病院」のモデル新山手病院もその敷地内に位置している。
八国山緑地は東村山市内にある都立公園。そこを抜けると、TBS「8時だよ全員集合!」で全国的に有名になった東村山音頭にも歌われた多摩湖に至る。「庭先ぁ、多摩湖〜♪」である。多摩湖からは富士山、西武ドーム西武園ゆうえんちなどが展望できてとても気持ちがいい。晴れた日などはここまで7kmの道のりを走り切った達成感もあって気分がノリノリになる。
時間が許すなら、足を延ばして多摩湖一周コースにチャレンジしてもいい。湖の周りには専用のランニングコースがあり、車に轢かれる心配なく走ることができる。適度なアップダウンもあって、いいトレーニングになる。
アップダウンというと、話を戻して八国山緑地。東西に伸びる小高い山の約2kmの稜線を走るコースである。散歩の人、ランナー、皆思い思いに木漏れ日が美しい武蔵野の雑木林の中を通り抜けてゆく。雑木林の中の遊歩道はフワフワで、脚にも優しい。
鎌倉時代、幕府を滅亡に追い込んだ新田義貞の軍が鎌倉街道を南下した折に陣を張った場所でもあるため、「将軍塚」という石碑が建てられている。
八国山緑地を抜けるとすぐに西武園競輪場、そして西武園ゆうえんちがある。その脇を抜け、多摩湖に至るのである。西武園ゆうえんちの観覧車の赤と白が青空に溶けて美しい。桜の季節はさらに美しさが増す。青と白、そして赤のコントラストが実にいい。ゴルフ場の緑も加わって、基本的にはカラフルさを楽しむコースということになるかもしれない。
長い時間走るランニングは、飽きとの戦いでもある。西武ドームの銀色の屋根を含めた美しく流れゆく景色は、ランニングのペースを上げてくれるまさにエナジードリンク、筋肉増強剤である。
グルっと多摩湖を堪能した後は、都道府中街道がその名を志木街道に変えるポイントとなっている交差点を通って所沢街道経由で清瀬に向かう。新型コロナウイルスで入寂した巨匠・志村けんの実家の横を通る。ここ2か月長野に拘束された状態の我が身としては、帰京後はいち早くこのコースを走り、笑いの巨匠の実家前で合掌させていただきたい気持ちでいっぱいである。
となりのトトロコースは、空と湖の抜けるような青と、武蔵野の雑木林の爽やかな緑のコントラスト、そしてアニメとコントの2大巨匠を生んだ長閑な東京都下を堪能できるピクニック感満載のアドベンチャーコースなのである。

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5回目の本番〜第21回長野マラソン

「お前! こんなとこで何やってんだよ! 行け! 行け!」


フィールドの人工芝に這いつくばっていた私の頭上に聞き覚えのある声の怒号が響く。もう何がなんだかわからない。夢の中に居るような感覚。

「そうだ、脚の痙攣で転んでしまったんだ俺は。ゴールまであと100m。行けるか。や、行くしかない。ゴロゴロと寝転がってでもあと数分以内に絶対にゴールしてやる!」

これまで4回の挑戦でことごとく跳ね返されてきたサブフォーの壁に、今回は最後の最後まで闘志むき出しで挑み続けることができた。それが最大の勝因だったのかもしれない。

平成31年4月21日に行われた第21回長野マラソン。今回も前半は快調なペース。キロ5分前後で時折4分台も出るといったいった軽快なラップで20kmまで。そして30kmまでもややペースは落ちたもののなんとか順調なペース。デビューの青梅マラソンでいい結果を出して長野マラソンに向けて調整に余念がなかったナイキの厚底シューズ「ズームフライフライニット(ZFFK)」はここまで最高のパフォーマンスを発揮してくれていた。

が、しかし、落とし穴はしっかりと35km過ぎに大きな口を開けて待っていたのだった。脚に違和感が生まれ、あっという間にどんどん大きくなり、ピキっ! とかすかな痙攣が起こる。ヤバい。右も、左も。両脚がパンパンで、ちょっとでも力を入れると痙攣が起こる。立ち止まってストレッチをする。屈伸をする。ゆっくりとスタートする。だましだまし走る。どうかこのままこのまま、何とかゴールまで持ち堪えてくれ、と、脚に祈りを込めて、コースに設置されているコールドスプレーを吹きかけてまたスタート、の繰り返し。

大幅なペースダウンであった。これまで15分以上あったサブフォーへの貯金がどんどんなくなっていく。このままではマズい。またこれまでの繰り返しだ。何の成長もないじゃないか。くそ、そんなことになってたまるか。何とかしないと、何とかしなければ。

しかし、脚はいっこうに言うことを聞いてくれない。長い長い土手の道。長い長いラスト5km。どうする? どうする?

ここで私は、これまで1度もしたことがなかったことをしたのである。その時なにを思っていたのかの記憶はもうない。とにかくやれることは何でもやろうというワラにもすがる思いだったのだろう。

水を、頭からかぶったのである。

脚にもかけた。

多くのマラソンランナーが普通に行う水かぶり。水をかぶるのは、水かぶり専用のスポンジがエイドに置いてあるくらい一般的なオーバーヒート対策である。

がしかし、私はこれまでただの1度も水をかぶったことがない。脚にかけたことすらない。

なぜこれまでしてこなかったのか。それは1999年の第75箱根駅伝で初優勝を狙った母校駒大が9区で順大に抜かれた場面に遡って説明しなければならない()。駒大の94年生北田初男選手がスピードに乗れず順大の選手に抜かれてしまったのは、脚に水をかけ過ぎたことで筋肉が冷えて固まってしまったからだというテレビの解説を聞いて以来、脚には水をかけてはいけないものだと思い込んでいたことと、単にシューズが濡れるのが嫌い、濡れたシューズでグチャグチャと走るのが嫌いだったことがあったからである。

しかし、もうそんなことは言っていられない。痙攣寸前の脚がコールドスプレーで一時的にでも回復するのであれば、水で冷やすのだっておんなじじゃないか、という単純なことに気がついたのだろう。たぶん。

頭と脚にザブザブと水をかけ、気合いを入れ直して走り始める。

するとしばらくして何とか痙攣せずにある程度のスピードを保ったまま前に進めるようになった。よし、何とかなる! と、そのままゴールの競技場を目指す。

何とかもってくれ、もってくれ、祈るような気持ちで走る。道路のわずかな凹凸にも気をつけながら慎重に慎重にしかし全力で進む。

そしてその緊張が競技場に入って緩んだのか、サーフェスが人工芝になっての必然だったのか、ゴール前で並んで応援をしてくれている小学生のかわいいダンスチーム女子たちの前で私は両脚に強い痙攣を起こし、前のめりに派手に転倒してしまったのである。超カッコ悪い。

そして偶然にも、すぐ後ろを走っていた大親友に喝を入れてもらい、気持ちを入れ直してすぐに走り始めることができたのであった。劇的である。今回も付けて走っていた背中の「久利多食堂ロゴ」のおかげで、大親友は迷うことなく私に大音声をかましてくれたらしい。親戚の力にまた助けられました。ありがとう久利多食堂。


ゴール。


ゴールラインの両脇にある電光掲示板が3時間58分を表示していたことだけはしっかりと意識の中にあったが、あとは無我夢中。ただがむしゃらに「前に、前に」と進むのみであった。

すぐに大親友が駆け寄ってきてくれた。そうだ。ここに居るということはつまり、大親友もサブフォーということだ。負けて少し悔しかったけど、2人でサブフォーなんて素晴らしいじゃないか。やった!やった!

ついに、私は悲願のサブフォーを達成したのだった。昨年のネットサブフォーから、押しも押されもしないグロスサブフォーである。やった!


「あそこ見て! そして笑って!」


感慨に浸る間もなく、大親友に言われるままその場で大親友と肩を組んで微笑む。どうやらケーブルテレビの定点カメラに向かってポージングをしていたようだ。この場面(フルを走り切った直後)でもなおかつ発揮される大親友のそんな目立つことへの周到さは尊敬に値する。とても真似はできない。


順位は2,361位。昨年の3,295位よりも935位分速くなった。大したものだ。あまり関係ないが、私の妻の名前は久美子(935)という。


いつもどおり、N本君とシャトルバスで柳原体育館まで帰ってくる。そこから昆虫のそれほど残った体力を使って1km先の実家まで歩く。するとラスト30mというところで、近くの公園でバーベキューをしている集団に声をかけられた。


「お疲れさま〜、一緒にどうぞ〜!」


フィニッシャーズタオルを肩に掛けたままだったので、1人のランナーとして労ってもらっているのであろう、ありがたいことだ、などと感慨に耽りながら亡霊のように歩み寄り、楽しそうな面々に拍手で迎えられる。


「超嬉しい、、、」


呟きながらよく見ると、その集団は、長野県のマスコットキャラクターの仕事をしているURいとその仲間たちであった。なんだ。Rいは家がこの公園のすぐ近くであり、私は彼女が10歳の頃から彼女の面倒を見ている。Rいは、口では言わないが私のサブフォー挑戦を応援してくれている一人なのであった。


「やったよ!」

「ふーん、よかったね。」


いつも素っ気ない。

しかし、ビールを飲ませてくれ、肉も食べさせてくれた。そして同じく長野マラソンを完走して駆けつけたFR恵さんを紹介してくれ、記念写真のセットまでしてくれた。Rい、ありがとう。ほかにも、 MNゆ子に至っては何と足のマッサージまでしてくれたのであった。

「だって42.195を走った人がそこに居るんだよ? そのくらいするでしょ。」

うーむ、胸に沁みる。大事にされて嬉しい。がんばってよかった。泣ける。


ちなみにこの場に数多いたメンバーとは、この後、夜の酒場で入れ替わり立ち替わり、幾度となく、事あるごとに一緒に飲むことになるのであった()。しかしこの時はそんなことになるなどとは夢にも思っていなかった。4時間という壁を超えたこの日、ある意味別の壁をも乗り越えて、私は新たなフィールドに脚を踏み入れたのかもしれない。


グロスタイム3時間5812

ネットタイム(参考)3時間5621


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歴史と伝統の青梅マラソン〜第51回、第53回大会

「俺たちと同い年だから、俺はこのTシャツで走るよ。」
高校同級生のN本君は、嬉しそうに参加者全員に配付される大会オフィシャルTシャツにナンバーカードを付けて走る準備をしていた。
「こんないいことないじゃん。毎年同い年。当たり前か(笑)。」
嬉々としてアップを始めたN本君とは対照的に、数字に弱い私は今ひとつピンと来ておらず、まだ困惑していた(笑)。
 
青梅マラソンは、我々が1歳の時(昭和42(1967)年2月)に第1回大会が開催され、以来毎年1回ずつ回を重ね、我々の年齢と同じ数の開催を積み上げてきている。
そして平成29(2017)年2月19日に開催された第51回青梅マラソンに臨んだ我々同期は、ほぼ昭和40(1965)年生まれの51歳。つまり同い年というわけである。これは、来年も、またその来年も、1年に1度の開催が続く限り変わらない。
(数字に弱い私はここまで書き上げるのにたっぷり1時間(笑))
 
青梅マラソンは、東京・青梅市で開催される市民マラソン大会である。例年2月の第3日曜日に開催され、主催は東京陸上競技協会・青梅市報知新聞社などで構成される青梅マラソン財団。ボストンマラソンと姉妹提携をしている。
第1回開催当時、一般市民が参加できるマラソン大会は日本国内にはなく、著名なアスリートと一緒にレースに参加できる大規模な大会として有名になり、今日のような全国から参加者が集まる市民マラソン大会の先駆けと言える歴史と伝統を誇る。
30キロの部と10キロの部を合わせて1万9000人が参加する大規模な大会で、オリンピックや箱根駅伝国際レースで活躍するアスリートも出場することから沿道からの声援も多く、私設エイド(個人で行う給水給食ポイント)の多いアットホームな雰囲気がある。
かつて高橋尚子選手や野口みずき選手も走っており、その後にオリンピックで金メダルを獲得しているという験(ゲン)の良さもある。
 
青梅マラソンは、子どもの頃からその名前を聞いたことがある有名な大会であるということもさることながら、マラソン仲間でもある会社の後輩女子A野Y香がかつて参加した際、
「前半の上りがメチャメチャきつい。いつ終わるんだという感じでこれでもかと登らされて、帰りは帰りで下りもまたツラい。とにかくメッチャきつい大会でした〜〜。もう走りたくない。」
というコメントを残していたため、とにかくハードな大会というイメージがあった。
実際、コースは青梅街道をひたすら上り、折り返してひたすら元来た道を戻るというもの。実にシンプルな厳しさである。
スタート前はさすがに緊張した。大丈夫か、俺(笑)。
とはいえ、スタートしたらとにかく走るしかない。42.195ではなく、30キロであるということに一縷の安堵感を求めつつ、走り始めた。
走り始めると、上り坂は、思ったよりもキツくはなかった。長野の山の中でアップダウンを多く経験してきたからなのだろうか、起伏の強弱も多くはなく、むしろリズムを掴みやすいくらいであった。
長さも、あまり気にならなかった。7km地点の辺りで折り返してくるランナーのための反対車線の確保が始まり、そして8km地点辺りでトップ集団とすれ違った。もの凄いスピードで駆け下りていく集団の中に、山の神・神野大地選手がいた。
そしてあれよあれよという間に10km地点。この辺りから続々と折り返してくるランナーたちが増え、N本君ともすれ違い、アイコンタクトでエール交換を行う。コースに沿って走る青梅線の駅の風景や私設エイドを楽しみながら、さほど苦しくなく折り返し点に到達することができた。
下りは楽しい。とても気持ちのいい走りができた。さすがにラスト数キロは苦しくてゴールが待ち遠しかったが、後は何の問題もなくラストスパートもできて気持ちよくゴール!! という結果であった。トイレを我慢していたためにゴール後すぐにトイレに駆け込んだというのが唯一ピンチらしいピンチだったくらいだ。
 
あの、歴史と伝統の青梅マラソンを完走した。
我々高校同級生たちは、ある種の感慨とともにお互いのゴールを称え合った。
その後、私は高校同級生のN藤君とともに、青梅在住の高校同級生T永君のお宅にお邪魔して彼の手料理で祝杯をあげたのだった。
T永君の家は、マンションの高層階にあり、多摩川上流のうねりが眼下に見下ろせる素晴らしい景色が魅力だった。夕日に映えた多摩川が、完走の安堵感からかドッと疲れを感じている我々に最高級のもてなしをしてくれた。
T永君とは、1年前、同級生のS戸さんとともに新宿西口で酒を酌み交わしていたが、その時彼は青梅マラソンを走ってから駆けつけてきてくれたのだった。エアロビクスをディープな趣味としている彼も、なかなかにタフガイである。
その2年後の、平成31(2019)年の2月17日。我々が53歳の時の第53回大会に参加した際も、私はT永君のマンションでご馳走になったのであった。今度は彼の奥さんと彼の従兄弟のK山さんとの4人でテーブルを囲ませていただいた。K山さんは、何と長野の須坂市出身で長野の企業にお勤めでありながら現在東久留米在住ということで、私と実によく似た環境で走っておられ、日頃のランニングや今回の結果についての話が実に面白かった。
 
その第53回大会。また高校同級生たちとともに走った。かつて10キロの部を走っていた女子2名も今回はしっかり30キロを走った。素晴らしい。
我々男子6名は、シューズの話題で盛り上がった。それは、マラソン日本新記録を樹立して報奨金1億円を相次いで獲得した設楽悠太選手や大迫傑選手らが履いて世間の注目を集め、箱根駅伝でもその占有率が高かったナイキの厚底シューズ「ズームフライ」についてであった。
4月の長野マラソンに照準を合わせ、新しいシューズを模索していた私とN藤君が、ともに彼らのシューズとほぼ同じ仕様のモデル、ナイキの「ズームフライ フライニット(ZFFK)」で走ったため、話題はその使用感の発表が中心となった。
合う、合わない、走り方を変えなければならない、など、いろいろと賛否両論ある中で、実際に我々は、自己ベストを大幅に更新したのであるから、結論として、
「我々レベルのランナーにも、このハイテクシューズは有効」
と考えざるを得ない。
何より走り心地が最高に気持ちいいのである。平地は背中から微かな追い風が吹いているようで、上りはグイグイと背中を押されている感じ。そして下りはそのスピードが抑えきれないという、素晴らしいズームフライ フライニット。故障明けで心配していた左膝も、何の問題もなかった。
 
来たる長野マラソンが楽しみで仕方がない。

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人、人、人、の青梅マラソンは、まさに東京トラッドなのである。