なぜ私は毎日走っているのか。フルマラソン・サブ4(サブフォー)への道

50歳を過ぎた普通のサラリーマンが、ある出来事をきっかけに毎日走り続けるそのモチベーションの数々。

登山でトレーニング〜苗場山

苗場というと、有名なのはプリンスホテルの苗場スキー場で、苗場山という山についてはそれほど知られていないのではないだろうか。
何を隠そう私自身も、苗場山日本百名山に数えられているということすら露知らなかった一人である。教えてくれた会社の後輩M井君に感謝しなければならない。
 
「えーっと、割と楽に登れて、山頂までの景色が最高で、彼女を連れて行っても大丈夫なくらい、初心者向きのところでしたよ〜っ!」
 
苗場山は2,145m。長野県と新潟県の県境にあり、上信越高原国立公園に属する。山頂南西側が平坦な湿地帯となっていて、小さな池塘(ちとう)が無数に点在するその美しい景色から「天空の楽園」とも呼ばれている。
東側の山麓には、かぐらスキー場があり、その南に苗場スキー場がある。そして西側の山麓、中津川に沿った峡谷に、秘境・秋山郷がその姿を隠しているかのようにひっそりと存在している。
山頂に向けての登山道としては、新潟県側東山麓に、祓川(はらいがわ)コースと呼ばれるかぐらスキー場から登る4時間のコースや、苗場スキー場付近から清津川をさかのぼるコースがある。
西山麓側には、秋山郷の小赤沢から登るメインルートがあり、約3時間。また、距離は長いが、美しい池塘群が広がる小松原湿原を楽しむ小松原コースがある。
平成30(2018)年7月22日、私は会社の後輩M井君から1年前に聞いた「彼女を連れて行っても大丈夫」というザックリとしたイメージをベースに、具体的には数週間前に登頂をしたばかりの高校同級生M院長からDMで教えてもらった情報を頼りに登山口へと向かった。
まだ暗いうちに実家の長野市を出て、国道117号線を千曲川に沿って下流へと進む。途中、飯山市を過ぎてからは、蛇行する千曲川に沿った景観がなかなかに楽しい。
そしてそのまま長野県を出る。川の名前が千曲川から信濃川に変わる。新潟県だ。
津南町をしばらく走り、右折して目指すのは秘境・秋山郷秋山郷は、長野県であるにも関わらず、新潟県にいったん出てからまた長野県に入るルートが一般的である。どうしても長野県から出たくない人は、志賀高原の奥、奥志賀高原の奥を通り越してさらに山道を進んでいかなければならず、しかも冬期間は通行止めという、とんでもないことになってしまう。
その秋山郷から登る。
登山口は、M院長の情報によると「赤沢」という地区にあるというので、それらしい看板のところを左折して山道を車で登っていく。
M院長は「道が狭くて登山口まで到達するのが大変だった。正直怖かった。」とも言っていたので、道が予想以上に狭いのは仕方のないことなのだと思っていた。だがしかし、それは、大きな間違いであった。残念ながら、それに気づくのは、山頂への到達を待たなければならない(笑)。
細い細い、畑の中の道を進めるだけ進み、これ以上車では登れないというところまで来て、辛うじて車1台停められるスペースに車を停めて、そこから登山開始。少し朽ちてはいたが、「苗場山→」という看板があったので、道は間違ってはいない。私は、細くて草が多めな登山道をひたすら登っていく。
おかしいなと思わなければいけなかった。日本百名山に数えられる登山道がこんなに細いはずがない。こんなに寂しいはずがない。誰一人としてほかの登山者に出会わないじゃないか。明らかにおかしい。いや、おかしいなとは思っていた。思っていたのだが、もはや引き返せないところまで来てしまったのであった。2時間以上、ただひたすらに景色も変化も楽しめない雑木林の寂しい登山道を登り続けている。おかしいけど、おかしいけど、これはもう、行けるところまで行くしかない。
 
視界が開けた。
 
そこは、頂上であった(笑)。
そして、山頂標識も目の前にあった。
苗場山2,145m」
なんてことだ(笑)。
いやー、こんな経験は全く初めてであった。
全く楽ではなく、山頂までの景色は何も楽しめず、彼女を連れて行ったら機嫌が悪くなるどころか殺されてもおかしくないほどの修羅場が必至な状況である。いろんな意味で初心者は命がいくつあっても足りない(笑)。
 
「M井くん、とんでもないガセネタ掴ませてくれたなーおい!」
 
と思った。が、その数分後、わずか10メートルほど先に進んだところで、目の前に広がる夢の世界のような、悪魔的なまでに美しい風景を見た私は、間違えたのは自分の方だったと気づいたのだった。
美しい風景を存分に味わいながらのランチタイムの後、「小赤沢登山口→」と書かれた看板に従って下山する。美しい池塘が無数に点在する平原を、緩やかに下っていく。彼女を連れてきたら上機嫌になってくれること請け合いである(笑)。
平原が終わり、岩がゴツゴツしたある意味普通の登山道を下る。日本百名山にふさわしい道幅の登山道だった。何人も何人もの人とすれ違った。私は、登るべき登山道を間違えていた。確信したが、まいっか、と、開き直った。
秋山郷まで下山し、そこから車を停めたところまで移動する。車道はもちろん、景色を楽しみながらのランニングである。真夏とはいえ風が気持ちいい。
途中で、「福原総本家旧宅」という秋山郷の保存民家を解放して展示しているところに立ち寄ってみた。
中には誰も居なかった。
と思ったら明らかに昼寝から目覚めたばかりという老婆が奥から出てきて(笑)話し相手になってくれた。
老婆絹代さん(仮名)は、ここの管理人をしているという。絹代さんの説明で、秋山郷の暮らし、特に冬の厳しさがよくわかってよかった。
絹代さんは、18歳の時に鬼無里村から嫁に来たのだという。秘境から秘境への嫁入りである。嫁入り箪笥はどうやって運んだんだろうか、まさかクロネコヤマトではないよなー、などと考えながら聞いていたせいで、彼女の子どもたちが何人で、どこに住んでいて、孫が何人いて、年に何回くらい秋山郷に帰ってくるのかという絹代さんにとって大事な部分の内容は、全く記憶にない(笑)。
もう一つ。絹代さんとの会話の中で判明したこと。私が下りてきた登山道は、「小赤沢コース」であり、私は間違えて「大赤沢」から登る「新道」と呼ばれるルートを登ったということ。そしてそのルートは、新たに造られたのにもかかわらず、人気が全くないということ。
絹代さんは、昭和一桁生まれ特有の派手な手振りと大きな声で教えてくれた。
 
「あはははーっ! 苗場山登ってきましたっていう人はここに何人も来るけど、「新道」登ったって人に会ったことはないよ(笑)! あんたが初めてだ!(笑)」
 
私は、初めての男になってしまったのであった。

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美しい苗場山の山頂と秋山郷の保存民家

3回目の挑戦〜第19回長野マラソン

3回目の挑戦となる長野マラソン
これまで以上の練習量を自信につなげ、これまでしてこなかった新たな試みを着々と実践しながら、感謝の気持ちを胸にスタートラインに立った。
「この場に立たせてもらって感謝の気持ちでいっぱいです。関係者の皆さん、本当にここまで支えてくださってありがとうございます!」
勝手に盛り上がり、ややもすると目頭を熱くし、気分はすっかりトップアスリートである(笑)。
これまでしてこなかった勤務先の会社のメンバーでスタート前の記念撮影。スタート地点に応援に駆けつけてくださった取引先のN社長や、会社のM先輩ともパチリ。
前日は酒も飲まず、体調も整えてある。
晴れ上がった青空。気分も上々である。
練習量が増えたのには理由がある。前回の長野マラソン後の8月、高妻山登山でトレーニング中だった川内優輝選手に出会い、「毎日走ってください」という有り難〜いアドバイスをもらってからというもの、1日も休むことなく2キロ以上を毎日走り続けることによって、ベースとなる走行量が格段に増えたのである。
連続252日ラン。
これは、これまでの自分の経験にない大きな自信となった。月平均走行距離も、それまでは100kmそこそこから多くても150kmだった
ものが、200kmに届くようになってきていた。
靴も新しくした。
それまで2回の長野マラソンは、ナイキのズームスピードだったが、練習用にと妻に買ってもらったニューバランスの靴底の感覚が気に入ったことで、気持ちが完全にニューバランスにシフト。マラソン用にとHANZO(半蔵)の、しかも最も靴底の薄い軽量タイプを思い切って購入。上級者気分で準備をしてきたのであった。
スタート。
はやる気持ちを抑え、上々の滑り出し。前を行くランナーを無理に追い越そうとせず、できるだけ流れに乗るように乗るように走る。そして身体が温まってくる。
善光寺の表参道を下り、長野日赤病院前、長野冬季五輪のアイスホッケー会場ビッグハットを最高の状態で駆け抜ける。10kmを過ぎ、最高に調子がいい。そして清掃工場の脇を抜け、犀川の土手に出たところで我慢できなくなり、「調子いい!」とツイートする(笑)。
しかし、その先、20km付近からまたもやマラソンというものの難しさが頭をもたげてくるのであった。ああ無情。完璧だったはずの走りに微かな違和感が発生する。左臀部の張りであった。
やばいやばいやばい。やはりこの上級者用の靴は俺には無理だったんじゃないか。この靴での走り込みが足りてなかったんじゃないか。いろんなことを考える。考えても、考えなくても、その考えが当たっていようが的外れであろうが、足の張りはどんどん広がっていく。
そのうちに、右脚の太ももにも違和感が走る。おかしい。
いつもは30km過ぎ、もっと言うと35km過ぎのラストの土手でやってくる脚の痛み、この痛みとそれに伴うペースダウンをなんとかなくそう、なんとか乗り越えようとがんばって練習してきたのにもかかわらず、25kmを過ぎてまだ30kmに程遠い地点からどんどんその苦しみがひどくなっていったのである。
完走できないかもしれない。
焦った。
そんなことはあってはいけない。
いや、そんなはずはない。それは心配ない。
だけど、このままどんどん痛みがひどくなって走れなくなってしまったらどうしよう。ペースを落とそうか。いやいや、すでにこのペースではヤバいだろ。
頭の中は、かなりのパニックである。
もう、必死でゴールを目指してもがき苦しむ状態が、25kmからゴールまで。そんな、全く楽しめない、ひたすら苦しいだけのレースとなってしまった。
入院中の父に申し訳ないなぁ。
そんなことが頭をよぎる。85歳の父が入院したのは4月の3日。微熱がなかなか下がらず、近所のかかりつけ医の投薬ではどうにもならず、長野市民病院を受診し、入院となっていた。
食事も上手く取れなくなり、点滴で生活するようになった父の様子を、毎日ランニングで見に行っていた。熱は下がらない。原因も分からない。日に日に体力が落ちていくのがわかるようになっていった。
それでも、父は私が毎日走っていることを知っており、言葉少ないながらも私のことを応援してくれているのだった。
「がんばれ、父さん。」
私は毎日、父の回復を祈りながら、願がけをするような気持ちで長野マラソンに向けての調整を行っていた。
「マラソン、いよいよ来週だな。がんばれよ。」
本番の平成29(2017)年4月16日を明日に控えた土曜日の朝、朦朧とした意識の中から搾り出された父からのエールを、私はしっかりと受け取る。「もう明日だよ!」という突っ込みはグッと飲み込んだ。
 
もはや炎天下だった。
脚の痛みは、明らかに脱水症状から来る痙攣であった。気温の上昇に合わせた水分の補給が足りていなかったという、明らかなミステイクである。これも経験か。悔しい。
ゴール後、オリンピックスタジアムのスタンドを出たところで座り込んでしまった私は、両脚の痙攣で全く身体を動かすことができなくなり、友人たちとの記念撮影も、私を中心に皆んなが集まってくれるという、実に情けない状態であった。
そして、サブフォー達成の報告を父にすることは、この先永遠にできなくなった。
 
グロスタイム4時間17分33秒
ネットタイム(参考)4時間12分52秒

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ゴール後、両脚痙攣で全く動けなくなってしまった私

登山でトレーニング〜妙高山

妙高山2,454m。別名越後富士。新潟県にありながら北信五岳の一つに数えられ、その中での最高峰。カルデラの外輪山と山頂の溶岩ドームから成り、火打山(2,462m)、焼山(2,400m)とともに、頸城(くびき)三山と呼ばれている。
妙高山黒姫山(2,053m)、飯縄山(1,917m)は、北から順にほぼ南北に一直線に並んでいる。
初めて登った平成28(2016)年5月28日、幸運にもそれが確認できる写真を撮ることができた。妙高山から見てすぐ南に黒姫山。その向こう側に飯縄山、そしてそのはるか先に八ヶ岳連峰と富士山という写真だ。雲の上に、それらの山々が浮かんでいるように見える。
私は、2度目に登った平成29(2017)年10月28日のことが印象深い。というか、まだ2回しか登ったことがないのだが、現時点で、
 
妙高山は、最も楽しく登山ができる山」
 
であると断言できる。
とにかく楽しいのである。起伏と変化に富んだ登山道は、ひと時も「飽き」を許さない。
それは、登山口の燕温泉のとにかく奥まった立地と寂れた感じ、秘湯感120点からジワジワと始まる。
山肌から流れ出る水は、ことごとく熱い。水ではなくお湯である。山全体がグツグツと煮えたぎっているかのような熱気を感じる。
この日は、実家がある長野市内を朝まだ暗いうちから出発し、登山口に着いた6時ごろでようやく明るくなってきた。わずかに見える山頂は既に白くなっており、雪の状態によっては途中から引き返すことも想定しながら登り始めたのだった。
妙高山の威容から来る何とも言えない恐怖感。負けるもんかと自分を鼓舞して歩いていく。
吊り橋を渡って惣滝を見ながら急登を上がる。そして何がどう血の池なのかはわからないが、血の池という表示がある血の池を越え、沢を伝い、胸突き八丁と呼ばれる急登をグイグイ登るとその先に天狗堂。
ここまでのコースタイムが3時間。その先、山頂まで2時間の合計5時間であるが、トレーニングとしては3時間あれば何とか登り切れる。
登るにつれ激しく変化するダイナミックな景色の移り変わり、紅葉の赤、雪の白、赤茶けた岩肌、どれをとっても美しい。山頂までの間、本当に飽きが来ない。驚異的な楽しさである(笑)。
妙高山は、“須弥山(しゅみせん)”とも呼ばれる。仏教界において、世界の中心にそびえる、果てしなく高い山を表す須弥山。戸隠山、白山とともに、山岳信仰の霊山として多くの修験道に崇められ、女人禁制を厳守されてきたという。あの空海上人も妙高山を直感で霊山と悟って修行の場としたというから、霊験あらたかであることもこの上ない。
最後の溶岩ドームの部分が最大の難所であり最も楽しい部分で、ここがクライマックスである。屏風のように切り立った岩肌を、垂れ下がる鎖を頼りによじ登り、眼下に広がる絶景に背中を押されながら進む。そしてゴツゴツした岩山をガッチリつかみながら頂上に到達するのである。
山頂は、360°のパノラマが広がる絶景である。
北西方向に見える火打山は、新潟県の最高峰。その隣にある焼山は時期によっては入山禁止となる活火山で、噴火の煙が立ち上っている。その先の西側には北アルプス白馬連峰が連なっており、こちらも絶景である。
最高点は、南峰の2,454m。そのすぐ北にある北峰に一等三角点が置かれており、標高は2446m。撮影ポイントのチョイスにやや悩む。
西には外輪山。前山、赤倉山、三田原山、大倉山、神奈山などだが、赤倉山しか分からない。赤倉山の赤倉は、もちろん有名な赤倉温泉の赤倉である。なぜ赤なんだろうか。山肌の色が赤いからだろうか。よく分からない(笑)。
雪に覆われた山頂の岩陰にあった寒暖計は5℃。このブログを書いている3月1日は、厳しい長野の冬を越えたばかりなので、5℃というとかなり暖かな感じだが、10月下旬の5℃は、極寒である(笑)。身体がまだ夏仕様で、装備もウインドブレーカーという軽装。雪の世界に放り出されたらそれは寒い。
そそくさと下山し、天狗堂のさらに下、称名滝と光明滝のところまで下りてから用意したランチセットでインスタントの塩ラーメンを作り、パンやサバ缶とともに食す。無事に下山できた安堵感と相変わらずのいい景色に癒されて、気分は最高である。
下山後は、無料の露天風呂で疲れを癒す。これもまた素晴らしい。吊り橋の下にある「河原の湯」は混浴。反対側ルートの「黄金の湯」は男女別で、ともに燕温泉の醍醐味を存分に味わえる名湯である。
登山客だけでなく、燕温泉目当ての湯治客も足を運んで来るので、なかなかの賑わいである。
気分良く入っている湯治客のおじさんが満足そうに上機嫌で温泉談義をしているので、こちらまでつられて気分良くなってくる。
 
「俺ぁ、ここ5年くらい、この近辺の日帰り温泉という日帰り温泉全てに入ってきたが、ここを超える温泉はなかったね。うん、ここのお湯は最高だよ。あはははは!」
 
やはりここは最高なんだ。間違いない(笑)。
さらなる秘湯「惣滝下の湯」「称明滝の湯」という秘湯中の秘湯があるそうなので、今度来る時はぜひ体験してみたい。
ああ、こんな最も素晴らしいアメイジングスポットがなぜ長野県ではなく新潟県なんだろうというのが悔しい妙高山(笑)。
近くにお越しの際は、妙高山山岳信仰の拠点となっている関山三社権現(現在の関山神社)にぜひ立ち寄って参拝していただきたい。その崇高で神聖なる信仰の歴史は、私もその制作に携わった『妙高村史』に詳述されている。

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妙高、黒姫、飯縄の三連山とその先の八ヶ岳、富士山は貴重なショット

早起き野球と私。

早起き野球は、私が毎日走り続けるモチベーションの一つである。

ネオノバーズ。平成28(2016)年のシーズンから仲間に加えていただき、無事に3シーズンを乗り越えた。今シーズンは、また先発投手としての出番が多くなりそうで、今から身の引き締まる思いでいっぱいである。
その野球リーグは「フルサト早起き野球大会」といい、主催は古里早起き野球連盟である。チーム数は11。かつて長野市内にこのようなリーグが各地区にあったようであるが、今はこの古里地区ともう一つの2リーグが残るのみとのこと。
そんな時代の荒波に棹さすかのように、古里リーグも今シーズンは、3チーム減の8チームでの運営となることが濃厚だそうで、野球好きなオヤジたちにとっては寂しい限りである。
私は、東京勤務から長野勤務に変わった翌シーズンの平成28(2016)年のシーズンから、取引先である製本会社のH田さんに誘っていただいて参加している。H田さんがチームのキャプテン兼捕手という重要なポジションだったことがあったためか、チームのM監督は、いきなり先発投手として私を抜擢してくれた。
私の野球経験は、小学校時代の少年野球のみ。それでも、内野手に加えて投手の経験もあったので、会社でたまに行われる草野球の試合では投手を務めることも多かった。
そして、我が二男が少年野球をしていた時のコーチ経験や、中学で硬式野球クラブチーム「清瀬ポニー」に所属していた時の毎朝行うキャッチボールも、経験といえば経験。何とかゲームを作る自信がないわけではなかった。
それにしても、である。
加入したばかりでまだ海のものとも山のものとも知れない人間を、いきなり先発投手に起用するそのM監督の即断。
私は、本気とも冗談とも取れるホンワカしたM監督の期待に応えるため、始めから飛ばして全力投球。全力と言ってももともと速球派ではないところに年齢から来る衰えもあってか、当然のように打たれまくったのだった。ひどい時には1イニングで同じ打者に2本の柵越え本塁打を食らったこともある。チームも負け続けた。
それでもチームメイトに励まされ、おだてられながら何とか投げ続けていった。特に、キャッチャーのH田さんには本当によく声をかけていただき、ただただ感謝である。
当然ながら、肩や肘に痛みが出て、試合ごとに酷くなっていった。
それでも何とか投げ続け、打ち込まれた後半のイニングでリリーフをあおぐことがあったものの、基本的にはほぼ全試合投げていた。ランニングや登山によって、体力だけはついていたということなのであろう。
リーグ戦ということで、5月からの3か月間で10試合。ほぼ毎週試合があるという感じのまずまずのハードローテーションである。
そして、そんな中、生涯忘れられないであろう出来事が起こる。
肘の調子が悪く、投げる気持ちが萎えて試合前の練習で弱音がもれがちだった私に、H監督から檄が飛んだのである。
「痛いだなんだって言ってられる状況じゃないんだからね! 頼むよっ!!」
ハッとした私。この試合が最後のマウンドになってもいいくらいの強い気持ちで投げ切ることができた。そして、打線の援護もあってこの試合を5-3でものにし、勝利投手となる。
チームとしてシーズン唯一の勝利であった。私はここで大きな成長を成し遂げた。
 
何事も、気持ち次第。
(という場面は本当にある!)
 
翌シーズンは、若手のKくんとの二枚看板となったこともあり、何とか無事に乗り切り、打つ方で幸運にもチーム首位打者を獲得し、リーグの打撃ベスト10に名を連ねることができた。
高校野球の経験者や若い選手が多い中でのこの成績は、本当に嬉しかった。ランニングで鍛えた足腰の強さが大きな武器になっていたのは言うまでもない。
そして昨シーズン。辞めてしまったKくんの代わりに有能な投手S藤さんが加入。ほぼ先発投板をしていただき、私は外野手に専念させていただいていたのだが、そのS藤さんも、今シーズンはチームを離れてしまうという。私の気持ちの投球が求められており、ランニングに加えて筋トレやストレッチ、そしてシャドーピッチングなどもやらなければと焦る日々である。
もう一つ。
古里早起き野球連盟には、とんでもない鉄人、85歳の現役投手がいらっしゃる。
何度か対戦させていただき、声をかけていただける間柄となって、逆にこちらの背筋がピンと張りつめる思いである。
「ナイスピッチング!」と声をかけていただいた日は、感動で胸がいっぱいになった。心から、目標と思える人に巡り会えたのは、本当に幸運である。
負けてはいられない。
そんな、新たな発見と、強烈なインセンティブを私に与えてくれる野球の世界。
チームマネージャーのH坂さん始め、全ての関係者の皆様に心から感謝しながら、もちろん、試合のある日も走ります(笑)。

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負け続けるネオノバーズと85歳の現役投手

登山でトレーニング〜唐松岳

唐松岳は、北アルプスの山々の中で最も安心して日帰り登山ができる初心者向きの山である。
標高は2,696m。北の白馬三山との間に、北アルプス有数の難所である不帰嶮(かえらずのけん)がある。
長野市周辺にある北信五岳を制覇したら次はいよいよ北アルプスだ、という気持ちで我々長野の人間(長野市民)は乗り込んでいく。実は、長野市民にとって北アルプスはかなりハードルが高い。
北は白馬から南は御嶽山まで連なる山々の長いことおびただしく、そして岐阜県との県境に沿って南北に伸びる山脈と並び、長野県側にもう一つ南北の山脈がある。似たような複線の山脈は、富山県との県境にも立山連峰後立山連峰(うしろたてやまれんぽう)という形で存在する。
つまり、巨大過ぎるのである(笑)。
幾重にも重なる山脈。その果てしない長さ。幅と厚みがあるために、見る角度によって山の形とそれぞれの位置関係が変わり、山々を把握することが全くできず、名前も覚えられない。
というのが最初の印象。
いずれにしても、足を踏み入れなければ始まらない。その最初の一歩に最も適している山が、唐松岳なのである。
毎月、満月の夜に開催されていた「満月酒り場」という飲み会。初めて参加した夜にそこで出会った超山ガールのY紀さんに登山靴を買うことを強要され(笑)、「初の北アルプス唐松岳よ。」と諭されてのチャレンジであった。
平成10(1998)年の長野オリンピックアルペンスキー会場でもあり、もともとそのゲレンデが世界的に有名だった白馬八方尾根から登る。
白馬といえば、「舩木ぃ〜〜(号泣)」のシーンで有名な、あの日本団体金メダルのジャンプ台も白馬にある。八方尾根の麓である。
スキーのリフトに乗って、八方尾根の上の方にある八方池の周辺を散策するだけであれば、普通の運動靴で全く問題ない。サンダルやハイヒールでも、覚悟を決めた強者であれば同じく問題ない。
登山者は、そこから先を山頂目指して黙々と岩がゴロゴロしている登山道を登っていくのだが、これが、それまでの登山と違って最初からかなり景色が素晴らしく、心底楽しい。
白馬鑓ヶ岳、杓子岳、白馬岳の白馬三山を見ながら反対は遠く八ヶ岳から富士山を見ながら優雅に登っていけるのである。贅沢だ。
高山植物も多彩である。可憐だ。
その日は、平成28(2016)年8月11日の木曜祝日で、初めて山の日が国民の祝日となった年の山の日という、実に記念すべき日であった。
リオ五輪が開催真っ只中であり、その日は登山中に、柔道男子90km級のベイカー茉秋(ましゅう)と女子70km級の田知本遥がアベック金メダルを獲得、そして体操の内村航平体操男子個人総合で優勝し、オリンピック2連覇を達成したため、気分の高揚も最高潮だった。
コースタイムで4時間20分のところ、3時間少々で登る。5時スタートの8時着というイメージ。気分良く、身体が心地よく疲労する。
山頂手前の唐松山荘が見えてきたところで、食料なんかを下から運ぶのは、さぞかし大変なんだろうなぁと思った途端に頭の上をヘリコプターが大きな音とともに通過(笑)。アッという間に山小屋脇に網で吊るされた荷物を下ろして飛び去っていく。
山荘の尾根に立つと、富山県側の山脈、立山連峰が初めてその雄大な姿を現す。映画にもなったあの剱岳である。
登ってもいないのに、見ただけで背筋が思わずブルブルっとする。そんな威容である。
南側には五龍岳とその先の鹿島槍ヶ岳がジャンプしたら飛び移れそうなほど間近に感じる立体感で存在している。
鹿島槍ヶ岳日本百名山。2年後の8月19日にその頂に到達することになるのだが、その時はそんなことは露ほども考えていなかった。

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思わず日の丸を掲げてしまった記念すべき初の「山の日」

2回目の参加、第18回長野マラソン

「今年はよほどのことがない限り、4時間は切れるだろう」と高を括って臨んだ2回目の長野マラソンは、またしても苦しく悔しい残念な結果に終わった。
練習は存分に積んできた。そこに、昨年犯してしまった数々の失敗を再び犯さないように、細心の注意を払った。これはもう心配は要らない。そう思った。思って当然だと思う。
しかし、それがまだまだまだ経験不足。たかだか2回目で、そんなにうまくいくわけはないのである。
数々の失敗とは。
① 前半で右に行ったり左に行ったりと無理な追い越しをしたために、後半脚に来てしまったこと。
② アームカバーはしていたものの、Tシャツ1枚で走って腹が冷えたせいか、2回もトイレに寄ることになってしまったこと。
③ 後半、エネルギーが切れてあれよあれよとペースが落ちてしまったこと。
④ マラソン本番の高揚感から、写メを撮りまくり、沿道の応援に必要以上に応えてしまったこと。
とまぁ、こんなところである。
結論から言うと、どれもこれも、全ては「言い訳」の部類であるのだが(笑)。
しかし、2年目のこの頃の私は、そんなこととはつゆ知らず、それぞれの敗因(根本的には違うのだが(笑))への対策を練って練って、実に真剣に本番に臨んだのであった。
① 前半は、できるだけ抑えめに抑えめに、左右への移動を伴う追い越しはしないように心がけた。
② 長袖のアンダーを1枚、Tシャツの下に着用した。
エナジージェルを、大1、小2、ポケットの中に準備した。
④ ふざけないようにした(笑)。
この最後の「ふざけない」ということは、私にとってかなり難しい(笑)。
準備万端で迎えた前日、妻の実家に出向き、明日の長野マラソン本番への抱負を語り(笑)、畑仕事中の義母に本番用のナイキのランニングシューズを見せ(幸い、珍しもの好きの義母が写メを撮るなどして一緒に高揚してくれてよかった(笑))、前日受付の会場ビッグハットで、高校の同級生たちと盛り上がる。
そしてその夜、東京から走りに来た会社の後輩K子くんを、いつもの飲み仲間で囲み、小学校の同級生ゆり子ちゃんが女将をしているいつものおでん屋さん「いろは」で乾杯。
そして単身、長野マラソン本番用オリジナルTシャツを用意してくれた「久利多食堂」へ。女将をしている妻の従姉妹トンちゃんから、恭しくそれを受け取る。そして前夜祭で盛り上がるランナーや関係者の皆さま方と乾杯。
と、舞い上がっていることこの上ない。
そして本番。平成28(2016)年4月17日。
8:30のスタート直後から怪しい空模様の中、落ち着け落ち着けと逸る自分に言い聞かせながらゆっくりと走る。
5km過ぎ。長野大通りの中央分離帯に、大好きな高校の後輩「アンパンマン」を見つけると、堪らなくなって至近距離まで近付いてパチリんこ(笑)。それから先は、沿道で声援を送ってくれていた会社の先輩K山さんを、紙芝居的ネームボードもろともハグりんこ(笑)。
続いてその先の沿道で応援してくれていた会社の直属の部下I井さんにもハグりんこ(苦笑)。彼女のお父様はその後「大事な娘になんてことを!」と仰っていたとのこと(汗)。
完全に、抑えていた高揚感の爆発である。そして案の定、調子が良かったのは17km地点のMウェーブで妻実家の親戚一同からの声援を受けるところまでであった。
左脚に違和感を感じ、その広がりが大きくなるにつれて呼吸も苦しくなる。おかしいな、こんなはずじゃないのに、と思い始める。
そしてその先、天候の悪化による強風と雨で、ただでさえキツい五輪大橋の登りに、強烈な向かい風が加わり、気持ちにも大きなダメージを受ける。
中間点から先は、雨と寒さとの戦いとなった。ペースを何とか保とうとしてギリギリのところで気持ちを奮い立たせる。手がかじかんで、この頃はまだ防水ではなかったスマホをビニール袋に入れるのにかなり難儀をする。
ふたこぶラクダを越えた30km過ぎ、土手道に出たランナーたちを待ち構えていたのは、晴れ上がった青空から降り注ぐ真夏のような太陽であった。
ツラい。苦しい。土手で立ち止まってストレッチをするランナー多数。このまま進んでも、ゴールなんて永遠に来ないんじゃないかと思われるほど、35km過ぎの土手は苦しくて遠い道のりであった。
前回、土手の下のトイレから下を見上げ、上から「がんばれーっ!」と声をかけてくれた同級生N條くんのことを思い出す。彼は、土手の下に私を見つけ「あぁ、あそこにも苦しさと戦って走っている仲間がいる! 俺もがんばらなければ!」と思ったのだという。そんな彼の言葉を頭で反芻(はんすう)しながら懸命に脚を前に運ぶ。
そして、何とか止まらずに走り続けることはできたものの、ゴールのオリンピックスタジアムまであと2kmというところで無情にも時計は4時間を過ぎる。そこからの時間は、悔しさと情けなさが加わって本当にツラいものであった。
ゴール。記憶は途切れ途切れである。とにかく苦しい42.195kmであった。
ゴール後、頭に渦巻いたのは、来年、敗因とその対策に新たな項目を一つ加えなければならないという、歯ぎしりをするかのような強い思いだった。
 
「⑤ 前の日に酒を飲まない。」
 
いやいや、今、冷静にこの時のことを考えてみると、サブフォー達成はならなかったものの、前回から11分52秒も速くなっている。しかも風、雨、寒さ、暑さという悪天候のオンパレードの中でである。この時はまだ、敗因①も②も③も④も、加えて言うと⑤も、全て「練習が足りていない」ということに収斂(しゅうれん)されてしまうという基本的事実に気づいていなかったのである。
その至らなさもまた、練習不足に起因しているのであったのだが。
 
グロスタイム4時間13分48秒
ネットタイム(参考)4時間09分48秒

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自信満々で臨んだが、マラソンはそんなに甘いものではなかった。

ランニングコースいろいろ〜市立長野高校コース

平成20(2008)年、新たな長野高校が誕生した。それまで世界に2つの存在だった長野高校(明治16(1883)年創立の長野県長野高等学校と、昭和48(1973)年創立の大阪府立長野高等学校)に新たな長野高校が加わったのである。

長野県下唯一の市立高校として歴史を重ねてきた皐月高校が、女子校から男女共学になり、長野市立長野高等学校となった。来年には創立100周年を迎えるという。
校舎も全面改築。スポーツなど各種活動も盛んで、「市立長野」の名は全国的に知られるようになった。平成29(2017)年からは中高一貫校としてますます人気が高まっている。
白いラインのセーラー服が眩しかった皐月高校は、隣に長野高専、背後に長野養護学校清泉女学院短大があり、さながら学園都市的な立地ではあるものの、長野市北部の三才駅を最寄駅とし、りんご畑が広がる豊野町の手前に位置しているため、かなりルーラルなエリアである。
そんな、市立長野高校をグルリと回るコース。初めて走ったのは平成28(2016)年の2月23日。満月の夜であった。2回目の長野マラソンに向けて、練習での走行距離がだんだん伸びてきた頃である。
長野市民病院を北上し、長野県立総合リハビリセンターを左折する。その先のちょうど中間点が三才駅。珍しい駅名のため、全国から三歳児が集まってくる。駅名の看板をバックに、貸し出しの駅長コスチュームに身を包んでパチリ。嬉しそうな親御さんの表情がいちばん輝いている(笑)。運営する地元自治協議会ボランティアの方々の表情の柔らかさも嬉しい。
そして市立長野高校。そこをグルッとまた左折してデイリーヤマザキの角から長野マラソンのスタート地点である長野運動公園までグワーっと南下し、そこから東に進んで実家に戻ってちょうど10kmとなる。
北陸新幹線の高架を2回くぐるというのもこのコースの面白いところ。4km地点と7km地点。目の前を新幹線の車両が疾走していくと、なんだかいいことがありそうで、有り難や有り難やと心の中で手を合わせる(笑)。E7系の美しいフォルムに2回遭遇することもあるので、そんな日は至福感に包まれる(笑)。夜には車窓のライトが尾を引く流れ星のようであり、思わず息を飲む。
7km地点の高架は長崎よろしく「眼鏡橋」と昔から呼ばれているところで、飯山線長野電鉄、そして北陸新幹線という、JR在来線と私鉄と新幹線の線路が交差する全国的にも珍しいポイントであるため、撮り鉄たちがいつも鎬(しのぎ)を削っている。
6km地点のデイリーヤマザキについても触れておきたい。デイリーヤマザキには、知る人ぞ知る「ご当地焼き印付きホイップクリームあんぱん」なるものがある。ここのご当地焼き印は、「三才」。餡の甘さがホイップクリームに包まれて優しい口当たりに仕上がっている激ウマな焼きたてパンである。
私が最初に出逢ったのは、大親友Y口くんと正月ランをした時にエネルギー切れを起こして寄ったデイリーヤマザキ安茂里店の焼き印「安茂里」が施されたパンであった。
「なにこれ! まいうーじゃん!!」
直後に生き返ったのは、言うまでもない(笑)。
このご当地焼き印は、全国展開されているので、ランナーの皆さん、デイリーヤマザキがあったらぜひぜひ立ち寄ってホイップクリームあんぱんでエネルギー補給をしてみてください。
もう一つ。もう一つの長野高校は、県立である。しかし、長野県立長野高校とは言わない。正式名称は、長野県立長野高等学校ではなく、長野県長野高等学校なのである。これは、教育県長野の全ての県立高校において共通である。長野県立松本県ヶ丘高等学校ではなく長野県松本県ヶ丘高等学校、長野県立上田染谷丘高等学校ではなく長野県上田染谷丘高等学校、なのである。理由は知らない。
市立長野高校の前身、長野皐月高校は、長野県長野高等学校の春歌と呼ばれる歌の中の一つで
「チンカラマンカラ学校サボって北へ行けば〜、皐月〜のお姉ちゃ〜んが横目でに〜ら〜む〜♫」
と歌われている。眩しいセーラー服の為せる業だったのであろう。
残念なのは、そのセーラー服が、いつの間にやらブレザーという味気ない硬質なものに変わってしまったということである。

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楽しい要素が盛りだくさんのこのコース