なぜ私は毎日走っているのか。フルマラソン・サブ4(サブフォー)への道

50歳を過ぎた普通のサラリーマンが、ある出来事をきっかけに毎日走り続けるそのモチベーションの数々。

登山でトレーニング〜蓼科山

蓼科山八ヶ岳連峰の北端、標高2,531mの日本百名山である形が円錐形でとても美しいことから諏訪富士と呼ばれているらしいが、私はまだその呼び方を聞いたことがない(笑)。
車で行ける七合目登山口からコースタイム1時間半で蓼科山荘。そこから30分で蓼科山頂ヒュッテのある山頂に着く。健脚なら山頂まで1時間あればイケるという気軽な山である。
気軽に登れる日本百名山ということで人気があるが、そもそもそんな気軽に登れる山にそれほどの魅力があるのだろうか、という素朴な疑問が湧いてくる。その疑問を解決するため、私は平成30(2018)年7月29日に長野市内にある実家から車で3時間ほどかけて登山口までやってきたのであった。

説明

蓼科山がある蓼科高原は、長野県の真ん中辺り、茅野市にある高原で、蓼科山の南、八ヶ岳の西にあり、八ヶ岳中信高原国定公園に属している。
蓼科山は、「蓼科」と書く。
蓼科山がある立科町は、「立科」と書く。
 
間違えないようにしたい(笑)。
 
調べてみるとどうやらほとんどの場合が「蓼科」であり、立科町だけ「立科」と書くようである。立科町公式ホームページによると、芦田村・横鳥村および三都和村が合併し、蓼科町として話が進んでいたが、
当用漢字に「蓼」の字がないことと、蓼科山は古代「立科山」と呼ばれていたことから「立科村」に異議なく決定されました。その後町制施行により「立科町」となりました。」
ということらしい。
なるほど。つまり、「立科町」を表すときだけ「立科」を使い、その他全ては山だろうが高原だろうが豚だろうがネギだろうが美人だろうが(笑)、「蓼科」を使う、と覚えればいい。
「蓼科美人」、いい感じだ。
蓼科高原には、白樺湖や女神湖があり、都心からの交通の便も悪くないのでいろいろな山荘がある。ザッと挙げると立科慶應義塾立科山荘、IHIグループ蓼科山荘、東京海上日動蓼科山荘、トヨタ車体蓼科山荘、東京都清瀬市立科山荘などである。
ここでクレバーな読者諸氏は、
「ははーん、つまり、ほとんどの山荘は、蓼科高原にある山荘ということで「蓼科山荘」という名前であって、東京都清瀬市の「立科山荘」は、きっと立科町にあるんだろーなー。」
と思っているであろうと思う。
本当にそうだろうか。本当にそうなのであろうか。申し訳ないがそこまで調べるのは面倒なので、この話はここで終わりとさせていただきたい(笑)。
さてその東京都清瀬市立科山荘。東京都清瀬市に我が家がある関係で、我が愚息たちは、二人とも小学校時代にそこに宿泊する移動教室(昔風に言うと高原学校)を経験している。そして何とその移動教室のプログラムで「蓼科山登山を経験している」のである。
日本百名山に登り始めたのはここ数年という私。日本百名山の登頂経験としては、悔しいかな我が愚息たちの後塵を拝しているのであった(笑)。
さて、話を蓼科山の魅力というところに戻そう。いろいろな解説に「山頂からは、360度のパノラマ展望が楽しめる。」とある。
 
が、
 
その山頂。
 
行ってみると、何と何と、はやぶさ2が着陸に成功した小惑星リュウグウ」と瓜二つなのである(行ったことないけど・笑)。そしてその見渡せる表面積の大きいこと。野球のグランドが一面余裕で取れそうな見事な両翼95mなのである。
しかしそこでは野球は絶対にできない。なぜならそこが全面、ガラガラとした大きめの岩が積み上がってできているからである。バウンドがイレギュラーするだけでなく、ボールが岩と岩の隙間に落ちてしまったら二度と拾えなくなるほど隙間が深いからである(笑)。
野球のグランドを優に超えるスペースでそこが山頂なので「360度の視界の全てが岩」という状態。確かに360度のパノラマ展望ではあるが、それを楽しむには、ちょっと手前の岩が視界に入りすぎるのである。
中央付近に蓼科神社奥宮が鎮座ましましており、まさに浮世離れした風景。日常を完全に超越した異空間を心ゆくまで堪能できる、それが蓼科山最大の魅力なのである。
と私は結論づけた。

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とはいえキャッチボールくらいはしてみたい山頂の異空間

4回目の42.195km〜第1回松本マラソン

第1回松本マラソン
私はこの記念すべき大会に、高校時代の同級生に背中を押されてエントリーしたのであった。「(松本マラソンを)走る人も、走らない人も、年に一度くらいは集まってお話ししましょうよ。」
松本在住で洋菓子教室の先生をしているM奈子ちゃんが音頭を取ってくれ、松本FMでアナウンサーをしているI保ちゃん始め松本在住の同級生や、県内在住の同級生が打ち上げをセットしてくれるというので、私は大親友Y口(以下、大親友という。)や、サードA木、M本院長とともに平成29(2017)年10月1日、美しい城下町を走ることとなった。
走る4人は皆、長野市内からの日帰りである。始発である6時9分発の特急しなの号にそれぞれ乗り込む。満員御礼なので車内の移動はままならない。そのくせちゃっかり車掌が回ってきて特急券を持っていない人(私w)に1,180円の特急券を押し売りして回るのである。こんな日くらいいいじゃないか、という気持ちが込み上げてはくるのだが、いや、こんな日だからこそしっかり回収するのか。と、納得。
長野〜松本間は、JR篠ノ井線で結ばれており、各駅停車で約1時間半、特急で約1時間の距離感である。長野市内から松本市内に通学する高校生が多い。松本長野間を通勤する県職員は、ほとんどの人が高速バスを使うと聞いている。
JRは片道で1,140円、往復で2,280円のところ、信州往復きっぷという長野松本間の往復切符だと810円お得な1,470円で買うことができる。3割5分5厘引きである。プロ野球だったら首位打者が獲れそうだ(笑)。
松本駅を降りると、駅前からシャトルバスがガンガン出ていて、スタート会場の松本市総合体育館までノンストレスで運んでいってもらえる。これは、長野マラソンと同じ運営母体が蓄積したノウハウを惜しげもなく投入しているんだろうなぁという感じがしてホッとする。
記念撮影をして、トイレに行って、さあスタート。総合体育館から松本市内の中心部までの緩やかな下りを、道を埋め尽くしたランナーたちがあっという間に速いペースとなって大移動をしていく。
そして松本市中心部。
松本城のお堀の東側を駆け抜ける。
 
松本城はチョコっとしか見えず、しかも一瞬で過ぎ去ってしまう。」
 
もう一度言う。
 
松本城はチョコっとしか見えず、しかも一瞬で過ぎ去ってしまう。」
 
しかし私は、しっかりとそのチョコっとしか見えない松本城の写真を撮ることに成功したのだった。
というか、せめてお城の周りをぐるっと周るというような、松本を楽しめるような設定にしてほしいものである。実にもったいない。
その後、小平奈緒選手が所属する相澤病院を抜けてしまうとのどかな風景の中をひたすら走るという退屈極まりないコースなだけに、本当に残念である。
退屈なコースを黙々と走り、快調なペース。半年前の長野マラソンで、暑さ故の両脚痙攣という失敗経験を生かしてこまめに水分補給もしている。暑さも、晴天で気温が上がってはいるものの、何とか20℃程度で収まっている。
30kmまでは順調だった。しかし、35kmの折り返し以降、脚が上がらなくなる。この道、折り返し前は気がつかなかったが、実は登りだったのである。思うように脚が前に出ない。苦しい。キツい。ゴールはまだか。
 
結局、Jリーグ松本山雅の本拠地アルウィンや、松本空港に沿ってカクカクとクランクするゴール前の道では、精と根を振り絞ってひたすら前に進むことだけを考えて走るという、全く楽しくない時間帯となってしまった。
そしてゴール前も失速したまま加速できずにカッチョ悪いままゴール。競技場の外で待っていてくれたM奈子ちゃんにカッコいいところは見せられずに終わった。
カッコ良かったのはレース中盤。ゲストランナーとして走っていた松本山雅の現役Jリーガー2人を相次いで抜かした、という場面。まあ、着実に力は着いているのである。
松本市内のスーパー銭湯で汗を流し、着替えてから打ち上げ会場がある松本市中心部に移動した私と大親友。まだ時間があるので会場近くのコンビニでビールを買って飲もうということになった。
そのコンビニ。ファミリーマートの店内で大親友が突然声を張り上げる。
 
「エーリック!」
 
彼の視線の先にはジャージ姿にリュックを背負ってスラリとした黒人男性。ドバイなど海外勤務が多かっ大親友が、こんなところでもビジネスの知人に会うのか、と私は思っていた。
しかし、その考えは、大親友にされた耳打ちによって霧消する。
さてここで、エリック・ワイナイナ選手について簡単に触れておこう。
エリック・ワイナイナは、ケニアのマラソン選手。コニカ(現:コニカミノルタ)の酒井監督に見出され、1993年に来日し同部へ所属。1994年の北海道マラソン初マラソン初優勝。1996年アトランタ五輪では、ケニア代表として見事に銅メダルを獲得。さらに2000年シドニー五輪では銀メダル、2004年アテネ五輪では7位入賞と、五輪2大会連続でメダル・3大会連続で入賞している。ウルトラマラソン1回を含んだマラソン優勝8回を誇り、そのうち長野マラソンで2000年と2003年の2回優勝している。」
とまあ、スンゴい選手なのである。
そのスンゴい選手が、松本のコンビニに居たのである(笑)。
大親友は、皇居ランなどで彼を見る機会が多かったため、一瞬で判別できたという。コンビニの外でエリックを待つ。遠くにチョコっとしか見えない松本城よりも、近くで大きく見える世界的ランナーの方がずっといい(笑)。大親友よありがとう。出てきたエリックは、人懐っこい笑顔で快く記念撮影に応じてくれた。
自分が教えているランナーが何人か松本マラソンを走ったので、サポートに来たのだという。話すととてもいいヤツ、ナイスガイであった。日本語も上手い。しかし書くのはローマ字である。
 
Arigato gozaimasu!!」
 
ワニかゴジラか、といった感じである(笑)。
優しいエリックは、フェイスブックが開いている私のスマホを操作し、自分のアカウントを検索して自分あての友達リクエストを私のスマホからしてくれたのであった(笑)。
 
Kore de OK!!」
 
そんな気さくで明るいマラソントップランナーに、私はまた図々しくも質問を浴びせかけたのであった。
「マラソンで4時間を切るにはどうすればいいでしょうか?」
世界のマラソンランナー、エリック・ワイナイナの答えは明快だった。
 
「走った後、2本でも3本でもいいから必ずダッシュを入れること大事ね。」
「毎日同じことをしていてはダメね。」
「腹筋も大事。腹筋もやった方がいいね。」
 
翌日から、この教えを愚直に遂行した私。その後すぐに革命的とも言える成長を遂げ、サブフォーに向けて間違いなくその階段を1段、いや2段登ったのであった。
 
グロスタイム4時間14分53秒
ネットタイム(参考)4時間10分06秒

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高校時代の同級生たち、チョコっとしか見えない松本城、そしてエリック・ワイナイナ選手

登山でトレーニング〜常念岳と蝶ヶ岳

常念岳は標高2,857m。北アルプス飛騨山脈の南北に複数ある山脈のうち、長野県側にある常念山脈の主峰であり、日本百名山の一つ。山の全てが長野県内にある。蝶ヶ岳標高2,677m。常念岳の南、常念山脈の稜線上にあり、こちらも山全体が長野県に属する。

中学校時代の集団登山を除いて北アルプス初挑戦だった唐松岳を、思いのほか順調かつ快適に踏破してから、私は北アルプスに対してかなり前のめりになっていた。あの稜線の美しさ、別世界を旅しているかのような隔世感。いずれも頭に刻まれたまま離れることがない。
 
「あの稜線をいつまでも歩いていたい!」
 
という症候群に冒され(笑)、ついにその病に導かれるままわずか10日後の平成28(2016)年8月21日、再び北アルプスに足を踏み入れることになったのである。
その病状に拍車をかけたのが、私を北アルプスに導いた満月酒り場で出会ったH田師匠。SNSにアップされた美しい稜線の写真と「常念岳蝶ヶ岳12時間の山行」というテキストに完全に打ちのめされ、「あの稜線をいつまでも歩く」ことを決めたのであった。
そしてその稜線は、実際に歩いてみると、思い描いていたこととは別の理由で「いつまでも歩いていたい」と思わざるを得なくなるのであったが、この時はまだそんな展開になるとは夢にも思わなかった(笑)。
三股登山口から登り、常念岳から蝶ヶ岳、そして三股登山口に下りて三角形を描く。コースタイムはしめて14時間30分である。そこを経験豊富なH田師匠が12時間。何とかがんばれば師匠と同じタイムで踏破できるだろうという計画で、朝まだ暗いうちから登り始める。
長野市内の実家から自家用車で2時間ほどかけて着いたJR穂高駅では、始発で着いたばかりなのか終電で着いて仮眠をしていたのか判別し難い登山客数名がタクシーに乗り込むところだった。
常念岳は、三股登山口から登るのが一番早いが、このルートは急登に次ぐ急登で、「初心者はご遠慮ください」という看板が出ているほどである。しかし、飽きないことが救いだ。
標高約2,400 mから上、森林限界を越える高山帯が、ライチョウの生息地として有名で、ライチョウ生息の研究がなされているポイントでもある。ガラガラと積み重なった岩々とハイマツが一面に広がる斜面に、霧がスーっと通過していく。ライチョウに出会えればラッキーである。
晴天の日は、天敵から身を守るためにハイマツから出てこないと言われているライチョウ。この日は幸いにも雲が多く、常に霧が流れている天候。
 
いた。
 
2羽だ。つがいだ。
 
いや、3羽だ。親子だ。
 
ライチョウは、野山の野鳥と違って人を恐れることがないのでかなり近づいてもシラーっとしている(笑)。特別天然記念物なので捕まえられないという人間のルールを知ってか知らずか(笑)、余裕綽々でヨチヨチと歩き回るので愛嬌があって実にかわいい。
ラッキー、ラッキー、ラッキッキ!
気分上々でガラガラとした岩山をよじ登っていくと、前常念岳と呼ばれる2,661mのピークに到達する。視界ゼロ(笑)。それもそのはず、この日は、二つの台風10号と11号が、太平洋上を不規則に動いており、日本にいつ上陸してもおかしくないという状況であった。
そんな霧の中、前常念岳の辺りから山ガール2人(以降「山ガールズ」と呼ぶw)と話をしながら進むようになった。常念岳山頂まではあと1時間を切っているはずなので、山ガールズに追いついた私は無理に追い越して行くことはせず、ポツリポツリ会話をしながら歩いていった。
そこに、私よりもやや若い男性2人組も加わって、霧で真っ白な稜線上での会話は弾んだ。
「今日は(常念岳の)山頂からどういうルートで?」 
「蝶で!」
「蝶で!」
「私も蝶ヶ岳で!」
何と5人とも、蝶ヶ岳を回るルートを目指していることが判明。皆、かなりの健脚である。
「そうですよね、台風が二つも来てる日にこんなところ(常念岳)に来てるわけだから、フツーの人じゃないですよね(笑)」
そう。フツーではなかった。
男性2人は、登山道の整備をしながら登っているとのことで、どこかの団体に属しているのか全くのボランティアなのか、はたまたそれが職業なのかわからない。
「しばらくここで作業しますからー。」
と、登山道脇のガラガラとした岩々を降りていってしまった。
晴天であれば、正面に槍ヶ岳がドーンと見えるはずの常念岳山頂を過ぎ、蝶ヶ岳への稜線を進んでいく頃には雲も切れ始め、時折右前方に大迫力の穂高連峰と涸沢カールが見え隠れしている。
「うわーっ!」
「うわーっ!」
もう、うわーっ!という言葉しか出てこない(笑)。
そんな山ガールズたちもまた、フツーの人たちではなかった。彼女たちは、岐阜から高速道路を交替しながら夜通し運転し、登山口で少し休憩してから登り始めたと言い、スゴい体力だと思ったら2人ともフルマラソンを走る人であった。
山で、速いペースで進む人は、かなりの確率でフルマラソンのフィニッシャーである。
走り過ぎてケガをしてしまったこと、そこから徐々に回復して練習量を増やしてきたこと、名古屋ウィメンズマラソンの素晴らしいこと、大阪国際女子マラソンに出れたら最高だということ、などなど、話は尽きることがない。
特に「バンちゃん」と呼ばれていた山ガールとは、一本道の稜線をかなり長い時間2人で歩いてお話をさせていただいたのであった。
そして蝶ヶ岳に到着。美しい蝶ヶ岳の斜面に広がる蝶のような模様が目に焼きつく。追いついたり、離れたり、また現れたライチョウの写真を一緒に撮影したりと、山ガールズたちと私は、北アルプスの稜線を存分に楽しんでいた。
ここで下山を急がなければならない事情が発生した私は、蝶ヶ岳ヒュッテで休憩している山ガールズに別れを告げる。
「バンちゃーん! この人、カエラハルってーっ!」
離れたところで水を汲んでいたバンちゃん、さようなら。また会えたら会いましょう。
時間がない。
私は「えー? なになにー?」というバンちゃんの声を背に、振り向きもせず下山を始めたのであった。
この時は、 SNSの投稿を辿れば(ハッシュタグなどを頼りに探せば)彼女たちとコンタクトを取ることはそう難しくはないだろうと軽く考えていた。しかし、それは大きな間違いであった。
こんな感じで山ガールと楽しく会話をしながら美しい稜線を歩くことは、またいつでもできるだろうと軽く考えていた。しかし、それも大きな間違いであった。
それがいかに稀有なことなのか、私はこの先の2年半で思い知ることになる(笑)。連絡先を、いやせめて名前だけでも聞いておくべきだった。
人生最大の「後悔先に立たず」である。
It is no use crying over spilt milk.
覆水盆に返らず。
この失敗は、2度と繰り返してはならない。

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山ボーイと山ガールズ、蝶ヶ岳ライチョウと名物の「ゴジラみたいな木」

ランニングコースいろいろ〜飯綱高原スキー場コース

3回目の挑戦となる長野マラソンの1か月前、平成30(2018)年3月20日、春スキー真っ盛りの飯綱高原スキー場のゲレンデに、ランニング中のTシャツマンが登場した(笑)。
 
脚力を鍛えるには、いわゆる峠走が効果的であると言われている。たっぷり上って、たっぷり下る。古くから長野市民のファミリー向けレジャーポイントとして君臨してきた飯綱高原スキー場を往復する、脚と心肺への負荷満点のこのコース。
小学生の頃、両親にスキーに連れてきてもらった「遠い遠い山の奥(笑)」に、自分の脚で到達するという、夢のような、何とも言えない感慨に耽ることができ、やりきった感満載で気持ちが満たされることも、大きな要素なのである。
飯綱高原スキー場は、平成10(1998)年の長野オリンピックで、モーグルエアリアルの会場となったところである。第1リフトから第5リフトまでと小ぢんまりとしたゲレンデながら、緩やかで長いコースからコブコブのゲレンデまでバラエティに富んでいる。
第5リフトから東側を降りるコースは、モーグル競技が行われた急斜面。女子モーグルで金メダルを獲得した里谷多英の名前を冠して里谷多英コースと呼ばれている(ひねりなし)。
長野市内とこの飯綱高原スキー場は、かつて戸隠バードラインという有料道路1本で結ばれており、それは長野市民を飯綱高原に運ぶピストン役を担った大動脈であった。しかし、昭和60(1985)年7月26日に発生した地附山地すべり災害によって寸断され、上松から大峰山までの区間が不通となり、現在に至っている。
この日、大学生だった私は長野市内にある東和田運動公園テニスコートでテニスを楽しんでいた。地附山からもうもうと上がる大量の土煙りと、その周囲を飛び回るヘリコプターといった、その時見た普通ではない感じを今も忘れることができない。
私は高校時代、硬式庭球班に所属し、数々の大会で、他校のライバルたちと鎬(しのぎ)を削っていた。その中で、長野東高校の一学年上のK口先輩のストイックな自己鍛錬が有名であり、印象に残っている。
彼が残した数々の伝説的なエピソードの一つ。練習が終わった後、「ちょっとランニングに行ってくる。」言って走り去り、翌日にどこまで行ってきたか後輩に聞かれ、「大座法師池までだよ。」と、涼しい顔で答えたという。
 
「化け物だ。」
 
素直にそう思った(笑)。
大座法師池といえば、飯綱高原のメインスポットである。とんでもない離れ業、まさに化け物である。
そのモノノケの視点を曲がりなりにも掴むことができた、そんな満足感もこのコースを走るモチベーションになっている。
戸隠バードラインが分断された後、長野市内から飯綱高原に行くには主に善光寺裏から登る「七曲りコース」と長野高校裏の浅川を遡上する「浅川ループライン」のどちらかを選択する。後者は長野オリンピックに伴ってループ橋が整備されて車の流れが多くなっている。途中に、ボブスレーリュージュ会場となったスパイラルがある。
七曲りコースは、スノーシェッドに覆われた8つのヘアピンカーブ(数えました(笑))が狭くて危険。ランニングにはお勧めできない。代わりに浅川畑山地区を経由して七曲りを登り切った大峰山に出るルートがお勧めである。
私が大好きな飯縄神社の里宮の前を通って戸隠バードラインと並走する旧道を走ると、ダイダラボッチ伝説がある飯綱高原のメインスポット大座法師池に着く。ここまで約14km。距離もなかなかである。
ここから飯綱高原スキー場までは約1km。第1ゲレンデから第3ゲレンデまで車道を横移動し、「浅川ループライン」を使って帰るのがお勧め。ぐるぐるぐるぐる、高速で下り走の筋力をガッチリ鍛えるのである。
スパイラルから浅川ループ橋の間にある集落、中曽根地区に「とがの木茶屋」という、手作りのおやきを売る小さな店がある。そこのおばあちゃんには、いつも褒められ、励まされてラストの下りのエネルギーにしている。おやきも美味いが草餅などの餡子も、疲れた身体に染み渡って実に美味い。
喋り闊達で元気あふれるこのおばあちゃん、実はモーニング娘。の現役メンバー羽賀朱音のおばあちゃんなのである。福田明日香安倍なつみのツートップ時代からモーニング娘。が大好きなTシャツマン、いつもここでモーニング娘。講義を熱心に聞き入ってしまうのであった(笑)。

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ゲレンデに現れたTシャツマン、浅川畑山地区とおやき屋さん「とがの木茶屋」

初めての参加〜第38回朝陽地区健康マラソン大会

私の実家がある長野市朝陽地区は、その昔、朝陽村といってそのほとんどが松代藩の領地だったところである。
長野市立朝陽小学校の通学区と同域で、1区南屋島から8区桜新町までの8つの地区から成る。私の実家がある6区南堀と7区北堀の境界上を長野電鉄長野線が走っており、朝陽駅と附属中学前駅が、南堀にある。
南堀には、東証一部上場企業、きのこの「ホクト」がある。数年前、要潤鈴木砂羽が出演する妖艶なコマーシャルで一世を風靡した信州を代表する企業だ。
そしてなんといっても朝陽地区で有名なのは、プロ野球北海道日本ハムファイターズ金子千尋(弌大)投手が朝陽小学校の卒業生であるということ。出身の新潟県三条市から、小学校4年生の時に父親の仕事の関係で5区の石渡(いしわた)に越してきて、そこで少年野球をし、進学した長野商業高校を甲子園に導いた。
彼は、母校朝陽小学校のために、プロで1勝するごとにグランドに少しずつ芝生を寄贈しており、今は北側4分の1ほどが緑の芝生で覆われている。
実は小学校時代に少年野球をしていた私。野球の世界でも立派な金子投手の先輩なのである(笑)。
その芝生で、キャッチボールをしたのは、私が長野に逆単身赴任してきた平成26(2014)年の9月2日の朝であった。地元銀行の支店長をしていた小学校・高校の同級生T野くんが帰長してきた私を歓迎する意味で付き合ってくれたのだった。彼も小学校時代に少年野球をしており、私とはチームメイト。実に40年ぶりのキャッチボールであり、感慨深いものがあった。チームメイトというのはどんなスポーツでもありがたい存在である。
秋が深まる文化の日。第38回朝陽地区健康マラソン大会が行われた平成28(2016)年11月3日は、澄んだ空気がキリリと冷える爽やかな朝だった。高校同級生のラン仲間の間でヘッドコーチ的な存在N本氏がやはり同じ朝陽小学校出身ということで、毎年参加している。彼は優勝候補の一人だ。
アップの仕方、コースの特徴、などの教えを請う。男女とも、AコースとBコースに別れており、長い方のAコースが6kmである。
参加人数は、全員で200名ほどか。
スタートすると、N本氏を含む数人のトップ集団が猛スピードで朝陽小学校のグランドから一般道へ出て、颯爽と駆け抜けていく。そして少年野球のチーム全員かと思われる大集団が続く。何とかそれについて行く。ついて行こうとするが、その速いこと速いこと。1キロ4分少々といった感じで記憶している。
ジリジリと後退。同じように後退する選手たちと、縦長になりながら必死で走る。ペースも何もあったものではない。ただただがむしゃらに走った。
そのうち、前方を走る少年野球の選手たちの集団が捉えられる位置まで迫ってきた。一人、また一人と抜いていく。こちらのペースが落ち着き始めても、彼らの位置が私の前から後ろに移っていく流れは変わらない。
あと2キロ、あと1キロ、と、ゴールが迫ってくる。野球少年はあと何人残っているんだろう。息が苦しく、必死に空気を肺に入れながらがんばる。
校舎が見えてくる。
グランドに入る。
そしてゴール。
 
結果は10位。
 
満足のいく素晴らしい結果だった。これまで2回のフルマラソンを走り抜いたスタミナと経験はやはり大きかった。自分の走りに初めて自信が持てた日だった。
10位までが入賞とのことで、表彰式に出た。賞状をもらった。人生初の、ランニングでもらった賞状である。素直に嬉しかった。
数か月後に発行された朝陽地区公民館の広報紙にも名前が出た。もう後には引けない(笑)。
 
表彰式で分かったことだが、私の前にゴールした9人のうち、少年野球の選手はわずかに2人。
40歳以上も歳の離れたおじさんランナーは、ほとんどの少年野球選手を抜き去ったことになる。
野球の先輩としての面目も、何とか保つことができたのだった。

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野球の後輩金子千尋(弌大)投手が寄贈した芝生でキャッチボールをした私とT野くん

登山でトレーニング〜苗場山

苗場というと、有名なのはプリンスホテルの苗場スキー場で、苗場山という山についてはそれほど知られていないのではないだろうか。
何を隠そう私自身も、苗場山日本百名山に数えられているということすら露知らなかった一人である。教えてくれた会社の後輩M井君に感謝しなければならない。
 
「えーっと、割と楽に登れて、山頂までの景色が最高で、彼女を連れて行っても大丈夫なくらい、初心者向きのところでしたよ〜っ!」
 
苗場山は2,145m。長野県と新潟県の県境にあり、上信越高原国立公園に属する。山頂南西側が平坦な湿地帯となっていて、小さな池塘(ちとう)が無数に点在するその美しい景色から「天空の楽園」とも呼ばれている。
東側の山麓には、かぐらスキー場があり、その南に苗場スキー場がある。そして西側の山麓、中津川に沿った峡谷に、秘境・秋山郷がその姿を隠しているかのようにひっそりと存在している。
山頂に向けての登山道としては、新潟県側東山麓に、祓川(はらいがわ)コースと呼ばれるかぐらスキー場から登る4時間のコースや、苗場スキー場付近から清津川をさかのぼるコースがある。
西山麓側には、秋山郷の小赤沢から登るメインルートがあり、約3時間。また、距離は長いが、美しい池塘群が広がる小松原湿原を楽しむ小松原コースがある。
平成30(2018)年7月22日、私は会社の後輩M井君から1年前に聞いた「彼女を連れて行っても大丈夫」というザックリとしたイメージをベースに、具体的には数週間前に登頂をしたばかりの高校同級生M院長からDMで教えてもらった情報を頼りに登山口へと向かった。
まだ暗いうちに実家の長野市を出て、国道117号線を千曲川に沿って下流へと進む。途中、飯山市を過ぎてからは、蛇行する千曲川に沿った景観がなかなかに楽しい。
そしてそのまま長野県を出る。川の名前が千曲川から信濃川に変わる。新潟県だ。
津南町をしばらく走り、右折して目指すのは秘境・秋山郷秋山郷は、長野県であるにも関わらず、新潟県にいったん出てからまた長野県に入るルートが一般的である。どうしても長野県から出たくない人は、志賀高原の奥、奥志賀高原の奥を通り越してさらに山道を進んでいかなければならず、しかも冬期間は通行止めという、とんでもないことになってしまう。
その秋山郷から登る。
登山口は、M院長の情報によると「赤沢」という地区にあるというので、それらしい看板のところを左折して山道を車で登っていく。
M院長は「道が狭くて登山口まで到達するのが大変だった。正直怖かった。」とも言っていたので、道が予想以上に狭いのは仕方のないことなのだと思っていた。だがしかし、それは、大きな間違いであった。残念ながら、それに気づくのは、山頂への到達を待たなければならない(笑)。
細い細い、畑の中の道を進めるだけ進み、これ以上車では登れないというところまで来て、辛うじて車1台停められるスペースに車を停めて、そこから登山開始。少し朽ちてはいたが、「苗場山→」という看板があったので、道は間違ってはいない。私は、細くて草が多めな登山道をひたすら登っていく。
おかしいなと思わなければいけなかった。日本百名山に数えられる登山道がこんなに細いはずがない。こんなに寂しいはずがない。誰一人としてほかの登山者に出会わないじゃないか。明らかにおかしい。いや、おかしいなとは思っていた。思っていたのだが、もはや引き返せないところまで来てしまったのであった。2時間以上、ただひたすらに景色も変化も楽しめない雑木林の寂しい登山道を登り続けている。おかしいけど、おかしいけど、これはもう、行けるところまで行くしかない。
 
視界が開けた。
 
そこは、頂上であった(笑)。
そして、山頂標識も目の前にあった。
苗場山2,145m」
なんてことだ(笑)。
いやー、こんな経験は全く初めてであった。
全く楽ではなく、山頂までの景色は何も楽しめず、彼女を連れて行ったら機嫌が悪くなるどころか殺されてもおかしくないほどの修羅場が必至な状況である。いろんな意味で初心者は命がいくつあっても足りない(笑)。
 
「M井くん、とんでもないガセネタ掴ませてくれたなーおい!」
 
と思った。が、その数分後、わずか10メートルほど先に進んだところで、目の前に広がる夢の世界のような、悪魔的なまでに美しい風景を見た私は、間違えたのは自分の方だったと気づいたのだった。
美しい風景を存分に味わいながらのランチタイムの後、「小赤沢登山口→」と書かれた看板に従って下山する。美しい池塘が無数に点在する平原を、緩やかに下っていく。彼女を連れてきたら上機嫌になってくれること請け合いである(笑)。
平原が終わり、岩がゴツゴツしたある意味普通の登山道を下る。日本百名山にふさわしい道幅の登山道だった。何人も何人もの人とすれ違った。私は、登るべき登山道を間違えていた。確信したが、まいっか、と、開き直った。
秋山郷まで下山し、そこから車を停めたところまで移動する。車道はもちろん、景色を楽しみながらのランニングである。真夏とはいえ風が気持ちいい。
途中で、「福原総本家旧宅」という秋山郷の保存民家を解放して展示しているところに立ち寄ってみた。
中には誰も居なかった。
と思ったら明らかに昼寝から目覚めたばかりという老婆が奥から出てきて(笑)話し相手になってくれた。
老婆絹代さん(仮名)は、ここの管理人をしているという。絹代さんの説明で、秋山郷の暮らし、特に冬の厳しさがよくわかってよかった。
絹代さんは、18歳の時に鬼無里村から嫁に来たのだという。秘境から秘境への嫁入りである。嫁入り箪笥はどうやって運んだんだろうか、まさかクロネコヤマトではないよなー、などと考えながら聞いていたせいで、彼女の子どもたちが何人で、どこに住んでいて、孫が何人いて、年に何回くらい秋山郷に帰ってくるのかという絹代さんにとって大事な部分の内容は、全く記憶にない(笑)。
もう一つ。絹代さんとの会話の中で判明したこと。私が下りてきた登山道は、「小赤沢コース」であり、私は間違えて「大赤沢」から登る「新道」と呼ばれるルートを登ったということ。そしてそのルートは、新たに造られたのにもかかわらず、人気が全くないということ。
絹代さんは、昭和一桁生まれ特有の派手な手振りと大きな声で教えてくれた。
 
「あはははーっ! 苗場山登ってきましたっていう人はここに何人も来るけど、「新道」登ったって人に会ったことはないよ(笑)! あんたが初めてだ!(笑)」
 
私は、初めての男になってしまったのであった。

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美しい苗場山の山頂と秋山郷の保存民家

3回目の挑戦〜第19回長野マラソン

3回目の挑戦となる長野マラソン
これまで以上の練習量を自信につなげ、これまでしてこなかった新たな試みを着々と実践しながら、感謝の気持ちを胸にスタートラインに立った。
「この場に立たせてもらって感謝の気持ちでいっぱいです。関係者の皆さん、本当にここまで支えてくださってありがとうございます!」
勝手に盛り上がり、ややもすると目頭を熱くし、気分はすっかりトップアスリートである(笑)。
これまでしてこなかった勤務先の会社のメンバーでスタート前の記念撮影。スタート地点に応援に駆けつけてくださった取引先のN社長や、会社のM先輩ともパチリ。
前日は酒も飲まず、体調も整えてある。
晴れ上がった青空。気分も上々である。
練習量が増えたのには理由がある。前回の長野マラソン後の8月、高妻山登山でトレーニング中だった川内優輝選手に出会い、「毎日走ってください」という有り難〜いアドバイスをもらってからというもの、1日も休むことなく2キロ以上を毎日走り続けることによって、ベースとなる走行量が格段に増えたのである。
連続252日ラン。
これは、これまでの自分の経験にない大きな自信となった。月平均走行距離も、それまでは100kmそこそこから多くても150kmだった
ものが、200kmに届くようになってきていた。
靴も新しくした。
それまで2回の長野マラソンは、ナイキのズームスピードだったが、練習用にと妻に買ってもらったニューバランスの靴底の感覚が気に入ったことで、気持ちが完全にニューバランスにシフト。マラソン用にとHANZO(半蔵)の、しかも最も靴底の薄い軽量タイプを思い切って購入。上級者気分で準備をしてきたのであった。
スタート。
はやる気持ちを抑え、上々の滑り出し。前を行くランナーを無理に追い越そうとせず、できるだけ流れに乗るように乗るように走る。そして身体が温まってくる。
善光寺の表参道を下り、長野日赤病院前、長野冬季五輪のアイスホッケー会場ビッグハットを最高の状態で駆け抜ける。10kmを過ぎ、最高に調子がいい。そして清掃工場の脇を抜け、犀川の土手に出たところで我慢できなくなり、「調子いい!」とツイートする(笑)。
しかし、その先、20km付近からまたもやマラソンというものの難しさが頭をもたげてくるのであった。ああ無情。完璧だったはずの走りに微かな違和感が発生する。左臀部の張りであった。
やばいやばいやばい。やはりこの上級者用の靴は俺には無理だったんじゃないか。この靴での走り込みが足りてなかったんじゃないか。いろんなことを考える。考えても、考えなくても、その考えが当たっていようが的外れであろうが、足の張りはどんどん広がっていく。
そのうちに、右脚の太ももにも違和感が走る。おかしい。
いつもは30km過ぎ、もっと言うと35km過ぎのラストの土手でやってくる脚の痛み、この痛みとそれに伴うペースダウンをなんとかなくそう、なんとか乗り越えようとがんばって練習してきたのにもかかわらず、25kmを過ぎてまだ30kmに程遠い地点からどんどんその苦しみがひどくなっていったのである。
完走できないかもしれない。
焦った。
そんなことはあってはいけない。
いや、そんなはずはない。それは心配ない。
だけど、このままどんどん痛みがひどくなって走れなくなってしまったらどうしよう。ペースを落とそうか。いやいや、すでにこのペースではヤバいだろ。
頭の中は、かなりのパニックである。
もう、必死でゴールを目指してもがき苦しむ状態が、25kmからゴールまで。そんな、全く楽しめない、ひたすら苦しいだけのレースとなってしまった。
入院中の父に申し訳ないなぁ。
そんなことが頭をよぎる。85歳の父が入院したのは4月の3日。微熱がなかなか下がらず、近所のかかりつけ医の投薬ではどうにもならず、長野市民病院を受診し、入院となっていた。
食事も上手く取れなくなり、点滴で生活するようになった父の様子を、毎日ランニングで見に行っていた。熱は下がらない。原因も分からない。日に日に体力が落ちていくのがわかるようになっていった。
それでも、父は私が毎日走っていることを知っており、言葉少ないながらも私のことを応援してくれているのだった。
「がんばれ、父さん。」
私は毎日、父の回復を祈りながら、願がけをするような気持ちで長野マラソンに向けての調整を行っていた。
「マラソン、いよいよ来週だな。がんばれよ。」
本番の平成29(2017)年4月16日を明日に控えた土曜日の朝、朦朧とした意識の中から搾り出された父からのエールを、私はしっかりと受け取る。「もう明日だよ!」という突っ込みはグッと飲み込んだ。
 
もはや炎天下だった。
脚の痛みは、明らかに脱水症状から来る痙攣であった。気温の上昇に合わせた水分の補給が足りていなかったという、明らかなミステイクである。これも経験か。悔しい。
ゴール後、オリンピックスタジアムのスタンドを出たところで座り込んでしまった私は、両脚の痙攣で全く身体を動かすことができなくなり、友人たちとの記念撮影も、私を中心に皆んなが集まってくれるという、実に情けない状態であった。
そして、サブフォー達成の報告を父にすることは、この先永遠にできなくなった。
 
グロスタイム4時間17分33秒
ネットタイム(参考)4時間12分52秒

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ゴール後、両脚痙攣で全く動けなくなってしまった私