なぜ私は毎日走っているのか。フルマラソン・サブ4(サブフォー)への道

50歳を過ぎた普通のサラリーマンが、ある出来事をきっかけに毎日走り続けるそのモチベーションの数々。

献血できない身体。

私は、献血が大好きである。
なぜか。
お菓子が食べ放題で、飲み物も飲み放題。ホットもアイスもチョイスできて、猫舌用にぬる目の設定までできる。場所によってはハーゲンダッツ等のアイスクリームまでいただける。それでいてお金は全くかからない。無料でそれほどまでに優遇される場面は人生でほかに見当たらない。ただただ嬉しい。ワクワクが止まらなくなってしまうのである。大人なのに(笑)。
そして、カウンターにいる受付の事務職員の皆様はじめ、素敵な魅力の看護師さん、可愛らしい看護師さんや、診察のドクターまでもが皆ホスピタリティに溢れまくっている。つまり、「神様扱い」をしてもらえるのである。そこも、かなり嬉しい。
こんなことを言うと「普段、どんな扱いを受けながら生きているんだよお前は!」というツッコミを受けそうなのでこれ以上説明するのは正直ためらわれるが、敢えて言おう。この厚遇、かーなーりー、嬉しい(笑)。
そんなわけで、単純な私はウキウキと舞い上がりながら毎回気持ち良くなり、とってもハッピーな気分でせっせと献血に通っているのだった。
 
献血には、全血献血成分献血がある。全血献血には400mL献血と200mL献血があり、成分献血には血小板成分献血血漿成分献血がある。成分献血は、成分採血装置を使って血小板や血漿といった特定の成分だけを採血し、体内で回復に時間のかかる赤血球を再び体内に戻すという方法。身体への負担も軽く、多くの血漿や血小板を献血できるメリットがあるが、時間がかかるために、献血時間の予約をしなければならない場合が多く、忙しい(忙しくしている)私のライフスタイルには合わないので、私は専ら全血献血をしている。しかもしっかり400mLである。
 
そんな楽しい私の献血生活に、ある日突然、楽しくない事件が起こった。それは、平成29(2017)年8月16日に28回目の献血を行って以来、再び献血が可能となる12週間後に、献血をしようとした時に起こった。
 
「はい、残念ながら、今回は、お休みしてください。ご協力、ありがとうございました。」
 
え、え、え、どゆこと?
俺、健康だよね?
超がつくほど健康だよね?
何? 何? 何? どゆこと?
 
自分で自分に何が起こっているのか、すぐには理解できず、かなり混乱した私であった。
献血をするためには、その人が献血をしても大丈夫なのかどうか、献血に耐え得るに十分な体力と体調を維持できているかが重要であり、それを、献血の直前に採血によって行われるチェック、つまり、献血をするための試験にパスする必要があるのだった。そこで私は、その試験に、見事に「不合格だった」のである。
どんなチェックか。まず、血圧。そして脈拍。これらはどうやら大丈夫だったようである。そして、ヘモグロビン濃度を判別するための血色素量の測定をするのだが、ここで、あえなく落第、ということのようであった。
400mL献血の場合、男性では、1dL中に血色素量が13.0g以上ないといけないらしい。そういう決まりのようなのである。いくら本人が、
「大丈夫です! 僕はいたって健康ですから、大丈夫です! 400mL血を採ってください! もし何かあってもそれは僕の責任ですから! お願いします!」
と頼み込んでも、決まりは曲げられない。
「次回、体調のいい時にお願いします。」
となってしまうのである。
せっかく献血ルームまで出向いていったのに、ジュースを飲んだだけで帰らなければならないという、この何とも言えない敗北感。これはこたえた。辛かった。
簡単に言うと、貧血である。
説明を聞くと、長距離ランナーは、貧血になりやすいのだそう。珍しくはないとのことであった。しかしそう言われてみても、自覚症状が全くないので戸惑いは果てしなく大きい。
そのことは、ネットなどで見てみると既に当たり前の話のようで、ランナーたちはそれぞれ鉄分のサプリメントを飲むなどして対策を立てているらしい。
そして私は、栄養摂取や睡眠時間を増やすなど、多少のにわかケアをしつつ、100円ショップで買った鉄のサプリも飲みながら、数か月後に再チャレンジをしたのであった。
が、結果はまたしても不合格。
むむむ、手強い。
実際、この頃は、第1回松本マラソンの後で、あのエリック・ワイナイナ氏からの教えを愚直に守って走行距離が飛躍的に伸びた時期であった。その結果、私は「献血ができない身体」になってしまったようなのである。
このままこのランニング生活を続けていくのであれば、以後もずっと献血ができない状態が続くことが濃厚である。大好きな献血ができない。あの、神がかり的なホスピタリティを味わうことができない。何とも寂しい限りである。私はどんどん暗〜〜い気持ちになっていった。
しかしそこで、パッと光が差すような出来事が起こる。それは、採血検査を担当してくれた可愛らしい看護師S藤さん(仮名)が私に掛けてくれた一言だった。
 
「いいトレーニングが出来てる証拠ですよ。」
 
何という素晴らしい言葉なんだろう。最高のペップトークである。後ろ向きな考えから前向きな考えに、ネガティブシンキングからポジティブシンキングへ、この時、私の気持ちは大きな大きな大転換を迎えたのであった。言葉一つで人の心がここまで大きく変えられてしまうという、人生において初の実体験であった。何と素晴らしいコーチングであろうか。
ありがとうS藤さん。本当にありがとう。
S藤さんのおかげで、私はこれからもがんばっていけそうです!
 
そしてその後、平成31(2019)年1月14日。年末年始で走行距離が減ったということもあり、私は不合格となってから実に3回目の再チャレンジで、無事に29回目の献血をすることができたのであった。
 

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ランナーにとって献血ルームのハードルは意外と高い


登山でトレーニング〜大峰山、地附山

長野市街地の北。善光寺の裏手にある地附山(じづきやま)は、標高733mの典型的な里山である。トレッキングコースが整備されており、市民の誰もが登れる手軽な山となっている。

昭和の高度成長期にはロープウェイがあって、到達する山頂エリアにある動物園や遊園地、観光リフトなどに親子連れが集まり、一大レジャーランドとして賑わっていたが、今はその跡形が廃墟としてわずかに残るだけである。
このエリアは、基本的に人に会うことはない。とにかくうら寂しいのである。心細くなってくるのである。そして、わずかな確率で人に会えば、そこには必ずと言っていいほど会話が生まれる(笑)。
 

地附山の登山口にある駒形嶽駒弓(こまがたけこまゆみ)神社は、昭和60(1985)年の地附山大地滑りでも「滑り落ちなかった」ことで有名である。頑丈な岩盤上に建立されているからなのだが、それ以来、「絶対にスベらない神様」として受験生に絶大な人気があるらしい(笑)。

そしてこの神社、善光寺創建(7世紀後半)よりも古い歴史をもつという。善光寺本堂の真北にあり、神仏習合善光寺奥の院なんだとか。善光寺信仰をよく知る関西の信者の間では如来さんの奥の院」と呼ばれて常識らしいので心しておきたい。

地附山は、小1時間で山頂に到達する小ぢんまりした山であるが、いくつかある登山道によっては傾斜がきつく、なかなか脚に負荷がかかるハードな行程を味わうこともできる。トレイルランの練習をしている人に幾度となく遭遇したこともある。

途中の「ビューポイント」では、東に広がる長野盆地が一望でき、その先にある志賀高原の山々を端から端まで見渡すこともできてかなり気持ちがいい。山頂からの眺めは、北に広がる飯綱高原の山々であり、この地附山が上信越高原国立公園の入り口に位置しているということがよく分かる。

山頂付近の「ヤッホーポイント」という看板の前で、飯縄山に向かって「ヤッホーっ!」と叫んでみる。コダマが返ってくる。調子に乗って何度も叫ぶ。結構気持ちがいいので何度も叫んでいると、我々世代はいつ間にやら「ファイトーっ!」「いっぱーつ!」と叫んでしまっているのである(笑)。リポビタンDのコマーシャルは偉大だった。よろしくファイト一発。というか、ファイトはそもそも一発二発と数えられるものなのであろうか(笑)。という疑問はさておき、リポDゴッコに付き合ってくれた高校の同級生K割君ありがとう(笑))。2人で持ち寄った自慢の肴でチビチビとウイスキーを煽った「山頂プチ宴会」は、なんとも言えない恍惚感だったね(笑)。
ほかにも前方後円墳があったり、長野市営のスキー場跡があったり、戦国時代に武田信玄が作ったという桝形城跡があったりと、地附山はなかなかに飽きない山ではあるのである。
長野市営スキー場は、私が在学していた頃の長野市立東部中学校の生徒手帳にその記述があった。
「生徒だけでスキー場に行くことは禁止する。(※ただし、地附山スキー場は除く。)」
えーっ! 地附山にスキー場なんてあるんだ! という驚きのみが私を含めた我々世代の持つこのスキー場との接点の全てであったと思う。なぜなら当時は既にモータリゼーションの波が一般家庭にも広がっており、戸隠バードラインの開通もあって、スキー場といえば飯綱高原スキー場か戸隠村営スキー場と相場が決まってしまっていたからである。逆に、少し前の世代が生徒だけだけでこのスキー場にどうやって来ていたのかがゲレンデ跡地を見ながら頭に渦巻くのであった。
 
そして地附山の北西すぐのところにあるのが大峰山(おおみねやま)である。大峰山は、標高828m。山頂に大峰城がある。
大峰城は、その地理的な特性から戦国時代の川中島合戦の物見砦として重要な意味を持っていた。そのため、時期によって武田方、上杉方それぞれの支配下となった歴史がある。
現在ある天守閣は、昭和37(1962)年に、私の父が大工棟梁を務めた建築共同企業体(JV)によって建てられたものであり(マジ)、かつて「チョウと自然の博物館」として活用され、山頂からの眺望を楽しむこともできたのだが、いつの間にか閉館となり、今は長野市役所の庁舎の一部(会議室等)としてしか使われておらず、寂しい限りである。
 
大峰山登山口は、善光寺の裏、いわゆる桜坂を登ったところにある雲上殿の裏にある。そこから歩いて15分ほどのところにある「謙信物見の岩」は、実に素晴らしい。そのワイドな眺望、特に夜景の素晴らしさもあって、かつては長野高校や長野西高校の生徒たちの格好の溜まり場として君臨していたのだった。
それはロッククライミングの練習場として活用されている切り立った岩場の上に、さらに円錐形の岩が突き刺さっているかのように立っており、その上の半畳ほどのスペースによじ登ることもできる。高所恐怖症の人はダメかもしれない。や、高所恐怖症の人でなくても、ここに登ると股間が「キュっ」とする(笑)。
 
この辺りのハイキングコースは、東京を始めとした長野以外から長野に着任してきた企業のビジネスマンを案内するのにも適している。善光寺から川中島合戦、昭和の高度成長期などを、空撮で捉えるかのように体感してもらうことができるからである。その効果のほどは、感激のリアクションが分かりやすかった着任間もないS經新聞のM支局長で実証済みである(笑)。
 
物見の岩から先、地附山と大峰山の中間点にある道標が最高に素晴らしいという話をしたい。
大峰山〜地附山」と白字で描かれたこの茶色のプレートは、『遥かなる日本アルプス』という雑誌(笑)のグラビアページから抜け出してきたかのような、アルプスの尾根の人だかりの中心にポツンと立っているかのような、都会的で洗練されたハイレベルでポッピーなデザインが施されており、このようなうら寂しいところにあるのがもったいないほどに一人輝きを放っているのである。訪れる機会のある方は、この道標のチェックを努努(ゆめゆめ)落とすことのないようにしてほしい。
 
今、地附山と大峰山は、時代を映す鏡として、別な意味での一大アミューズメントスポットとして、そのうら寂しさを前面に押し出しつつ、存在感をアピールしているのである。

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基本的に人に会うことがない大峰山〜地附山エリア

4回目の本番〜第20回長野マラソン

ラソンには、グロスタイムネットタイムという2種類の記録がある。
まずはグロスタイム。これは、「よーい、ドン!」と、スタートの号砲(ピストル)が鳴ってからフィニッシュするまでのタイム。
市民マラソンの場合は、スタートが長蛇の列となるため、後ろにいる人ほど号砲が鳴ってからスタートラインに到達するまでに大きなロスタイムが生じる。つまり、スタートが後方になればなるほど不利ということになる。
次にネットタイム。これはスタートラインを出た時からフィニッシュするまでのタイム。走るのに要した本当(正味)のタイムということになるので、スタートラインからどれだけ後方にいようと関係はない。
しかし、大会運営上の問題(最終順位がつけられないなど)等があって、グロスタイムネットタイムかどっちがどうなのということになると、公式の記録としては、あくまでもグロスタイムなのである。
ここが、ミソ。
 
平成30(2018)年4月15日、第20回の記念大会となった長野マラソンに参加した。フルマラソンへの挑戦は、これが5回目となる。
これまで4回のチャレンジで、4時間切りのいわゆるサブフォーを目指したにもかかわらず、ことごとく失敗を繰り返してきた私。理由はそれぞれの大会ごとの条件によって、それぞれ別のものであるようにも見えるが、私はこの大会への挑戦に向けて、一つの答えを出していた。
それは、圧倒的な走力の積み上げが足りていなかったということである。つまり走力不足。言うなれば練習不足である。で、今回は十分な走り込みができたから大丈夫! と思うのであるが、考えると、それは毎年そう思って走り始めるのであったのだったそういえばということになる(笑)。
「今年は違うぞ!」
と、正直思ったが、いやいやそれが慢心の元でそれが敗因の一つじゃないかと自戒の言葉を自分に投げかける。
そんなことよりも、今年はちょっと嗜好を変えて、今までできていなかったことを実現させてみた。それは、ランニングの師匠の一人である、我が二男が所属していた中学硬式野球清瀬ポニーの親父仲間の一人S水さんと一緒に走るということだった。
埼玉県在住の公務員である経験豊富なS水さんは、以前から長野マラソンに出場したいしたいと言っていたのだが、そのエントリーのハードルの高さなどもあって、なかなか実現できずにいた。しかし今回は、私が慣れた2回目のお友達エントリーを成功させ、実現に至ったのである。
S水さんはかつて、子どもたちの野球の試合や練習の時などに、私を誘ってグランドの周りをランニングしてくれていたのであった。「丹田に力を入れ、真下に落とす感じ」という、S水さんの指導でその時会得した走法は、今だに私の中で大きく基礎を形成しているものである。今思うとそれは、設楽、大迫両選手の日本新記録で今話題の厚底靴で必要と言われている「トップフット走法」の原型なんじゃないかとも思えてくる(笑)。
そのS水さんは、長野マラソンのスタートエリアまで徒歩3分(笑)の我が実家に泊まり、前日の受付からスタート、ゴール、打ち上げ(笑)まで、私と行動を共にしてくれることになった。
いつものように、前日受付で高校の同級生と記念撮影をし、健闘を誓い合う。そして得意にしている親戚の久利多食堂に、「久利多食堂オリジナルTシャツ」を取りに行く。
いつもと同じ。毎回同じ準備は順調に進んだ。S水さんとの会話で、いつもよりリラックスして臨めていたかもしれない。
そして翌日。
スタート前からぐずついた空模様で、小雨が降り続いている状態だった。私は、友人たちのアドバイスどおり、ビニールカッパを着て、かつ、靴が濡れないように、靴を履いたままビニールの買い物袋をさらに履いて号砲を待った。
スタート。
ランナーたちは、思い思いの雨具を身にまとって走り始める。100均のカッパがいちばん多いか。ビニールのゴミ袋に上手く穴を開けて被っている人も割と多かった。
気温は15℃。暑くなく寒くもない。そして小雨の湿気が、呼吸を楽にしてくれているかのように心地よい。しかもスタート地点からゴール地点までを結ぶ直線に沿った北北東の追い風がゆるやかに吹いている状況。走り始めて10kmほどでこれはもしかしてと思い始め、そして20km手前の緩くて長い登り坂五輪大橋をゆるい追い風に乗って走り切った時に、それは確信に変わった。
 
最高のコンディションじゃん!
 
気をつけるのは、水溜りで靴を濡らさないようにということただそれだけであった。前日や翌日、「雨で大変そうだねー」とか「雨で大変だったねー」とか言って、実際の現場を知らずに机上の空論を投げかけてくる人の何と多かったことか(NHK「チコちゃんに笑われる」風・笑)。ランナーにとって、実は最高のコンディションだったのである。
五輪大橋では、同じTシャツを着た人から初めて声をかけてもらい、少し会話(お互いの久利多食堂との関わりについて確認(笑))をしながら走ることができてビックリした。このオリジナルTシャツを着て走っている人は、何だかんだで20人近くいるらしい。「久利多食堂〜がんばれ〜〜っ!」と意外とたくさんの人たちから声を掛けてもらえるこのオリジナルTシャツ。そんなに出回っていたのか(笑)。
しかし、やはり20kmを過ぎるとだんだん脚が重くなってくるのはいつものとおり(苦笑)。22km付近の折り返し地点で、先を行くS水さんからすれ違いざまに「マチューさん、がんばってーっ!」と声をかけてもらっても満足な切り返しができない、ペースアップもままならない、と、そんな状態にやはり陥っていた私。
しかし、何とか粘り切り、ラスト2キロを全力疾走すれば目標のサブフォー(4時間切り)というところまで来ることができたのであった。そしてそこで思考能力をほぼなくしている私の脳は、遮二無二ラスト2キロを走り切る、ということを選択することはなかった。
 
そのまま4時間を2分ほどオーバーしてゴール。
ゴール後、S田浩美さんや店主のA木さん、H野智世さんら、仲良くさせていただいているch.books(チャンネルブックス)の皆さんが恒例にしている「フィニッシャーズタオル記念撮影」に混ぜていただき感無量(T_T)。
「目標達成は、次のチャンスまでのお楽しみだ!」
と、何だか素直に喜べた。もう1年、サブフォーを目指してがんばる時間がプレゼントされたのである。残念というよりむしろホッとした気分だったかもしれない。人間の、現状維持装置が発動したのかな、と感じた。
ラスト数キロでガクッと来るスローダウンが今回は起こらなかった。走り込みと、自然に積み重なった走力の為せる業だと思った。最終的に5,304位(5km通過時)から3,295位(ゴール時)に上げたことも嬉しかった。計算上、2,009人を追い抜いたことになる。大したものだ。
そしてネットタイムでは4時間を下回ること3分36秒。それが実際の私の正味のタイムである。条件付ではあるが、サブフォー達成だ。やった。嬉しい。グロスではないので、何だか静かに喜びを噛み締める(笑)。
そしてレース結果を聞かれて答える私の台詞も、答えるごとにブラッシュアップされてどんどん簡潔になっていくのであった。
 
「私の気分は「半分、青い。」(NHK連続テレビ小説)。」
 
グロスタイム4時間02分11秒
ネットタイム(参考)3時間56分24秒

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S水さんらと楽しむ久利多食堂チームの打ち上げ

ランニングコースいろいろ〜牟礼駅からのダウンヒルコース

岩本能史(のぶみ)というランニングコーチがいる。
平成21(2009)年、陸上経験ゼロでヘビースモーカーだった女性アイちゃんをわずか9か月でフルマラソン3時間13分を出すほどに成長させた『非常識マラソンメソッド』(ソフトバンク新書)で一躍脚光浴びた彼が、『型破り マラソン攻略法』(朝日新書)でその指南法をまとめた「非常識」なメソッドの数々は、10年たった今、ほぼ「常識」となりつつある。
市民ランナーのための市民ランナー目線での攻略法の数々。200kmを超えるウルトラマラソンの現役ランナーでもある彼の経験に裏打ちされたそれらのメソッドは、我々市民ランナーに大きな勇気と納得のいく結果を与えてくれるのである。
 
・マラソンは、食べるスポーツである。
(食べることにフォーカスされたのは意外にもここ10年くらいの出来事)
 
・カーボローディングは無理に行わない。
(本番直前3日間に炭水化物を強制的に摂取するカーボローディングは意外と総合的な効果に欠ける)
 
・「峠走」で速くなる。
(上りと下りでマラソンに必要な筋肉を鍛え、同時に心肺機能も高める)
 
・「15kmビルドアップ走」で速くなる。
(レースペース、1分速め、1分半速めのペースで走る5キロ×3は、42.195kmの縮刷版)
 
・ウォーミングアップはしない。
(練習量が少ない市民マラソンレベルではむしろスタミナロスが心配)
 
これらが、彼のメソッドの中心でもあり、私がマラソンの練習を始めてからの4年半で実践してきていることである。
彼のメソッドについては、第17回長野マラソンがフルマラソンのデビューでフルマラソン同期でもある高校同級生のN藤君と一緒にその効果の検証とブラッシュアップを行っている。それらの作業は、実に楽しく、心の底からワクワクしてくるものである。そしてそれらは間違いなく、走り続ける上での大きなモチベーションとなっている。
例えば峠走。例えばビルドアップ走。そして、本番前の直前練習。N君も私も、岩本能史氏によって示されたメニューを自分なりにアレンジし(仕事との兼ね合いなどでせざるを得ない場合が大半だが)、自慢し合いもとい報告し合いながら本番当日を迎えるのである。
 
外せないのが本番7日前の「ダウンヒル走」である。これは、「太もも前側の大腿四頭筋を中心とする着地筋の鍛錬」で、峠走で鍛えた着地筋に最後のダメを押すもの。翌日、翌々日は、激しい筋肉痛に見舞われるのだが、それが残り数日での超回復を経て30キロの壁をやすやすと乗り越える強烈な着地筋に仕上がるのである。
このダウンヒル走に真剣に取り組んだのは、4回目の長野マラソン挑戦の7日前。それまでの3回の失敗ランで、いろいろと考えた敗因の数々(ペース配分やコース取り、食べ物飲み物の補給法やシューズやウェアの調子等)は、ひとえに風の前の塵に同じだったのではないか、元々の絶対的な走力不足に全てが起因しているのではないか、という結論に行き着いたからなのであった。
岩本氏は、「1度に走ってもいい距離は、月間走行距離の6分の1である。」
とも言っている。
これまでの月間走行距離が多い時で200km程度だった私は、絶対的な走力不足を痛感していた。そして、川内優輝選手の指導による「毎日走る作戦」と、エリック・ワイナイナ氏指導の「ダッシュ&腹筋強化」によって、確実にそして自然に走行距離が増え、直前4か月は300kmをゆうに超える走行距離をこなしていた私が、仕上げの一発にこのダウンヒル走をチョイスしたのは極めて自然な流れであった。
 
そして桜が咲く平成30(2018)年4月8日。私は、実家からの最寄り駅の一つ、三才駅まで徒歩でゆっくり向かい、しなの鉄道北しなの線に乗った。目指すは長野市の北、飯綱町にある長野市ベッドタウン福井団地。県道60号線、いわゆる北國街道の最高点から長野市街に向かって一気にダウンヒルを行うためである。
ダウンヒルだけを純粋に行うため、最高点まではゆっくり歩いていく。そして、いつものとおりウォーミングアップなしで走り始める。歩きとはいえ既に30分ほど登り坂を経由しているため、身体は温まっていた。
いきなりの下り。スタミナ満載で下り坂を走るのは初めてだったため、かなり新鮮であった。速い速い。自分でもビックリするほどスピードが出る。そして気持ちがいい。北島康介選手が金メダル獲得で叫んだあの台詞が頭を駆け巡る(笑)。
そして実家までの8kmをそのままの勢いで走り切る。桜が満開で日射しもあり、汗だく。いい走りができて大満足であった。
そしてこの走りが、大筋肉痛と超回復を生み、7日後の長野マラソン本番でその成果を発揮するのである。
 
となったかどうか(笑)。
 
読者の皆さんは、次回のブログ「4回目の本番〜第20回長野マラソン」をお楽しみに。

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長野市街を一望しながら一気に駆け下る

登山でトレーニング〜燕(つばくろ)岳

工藤夕貴(ゆうき)という女優に魅せられたのは、相米慎二監督の台風クラブ」であった。
昭和60(1985)年、第1回東京国際映画祭ヤングシネマ部門で大賞を受賞したこの映画で、彼女は若手実力女優の地位を確固たるものにしたのである。上京2年目の私は、情報誌「ぴあ」を頼りに都内の劇場に何度も足を運んだのだった。
その工藤夕貴が2017年、NHKBSプレミアムドラマ「山女(やまおんな)日記」で主演をした。観ないわけにはいかない。原作はあの湊かなえ。2夜連続で、前編が常念岳で後編が燕岳という構成だった。
そして私は、そのドラマを通じて、山に魅せられた女性に改めて魅せられてしまったのだった。
常念岳は、登った。
燕岳は、中学2年の集団登山で登ったきりだった。人生初のアルプス。人生初の山小屋泊。それ以来、現在まで40年近く訪れていない山。
その山が、「アルプスの女王」と呼ばれ、老若男女、特に女性登山客に絶大な人気を誇る山だということを知る。
 
行かなければ。
 
と思った。
燕岳は、北アルプス(飛騨山脈)にあって、山体の全てが長野県に属する日本二百名山。標高は2,763mである。常念山脈に属し、「北アルプス三大急登」の一つである合戦尾根を登り切ったところにある。大天井岳を通って槍ヶ岳に向かう「表銀座コース」の起点にもなっており、まさに北アルプスの入り口なのである。
山そのものは、花崗岩でできており、山頂一帯の独特の美しさが登山者の心を癒す。また、高山植物女王と言われるコマクサが群生しており、そのたたずまいも美しい。周辺のハイマツ帯に生息するライチョウに出会うこともある。
登山口は、中房温泉。江戸時代から脈々と続く伝統ある温泉郷で、日本百名湯の一つである。
平成29(2017)年9月9日、私は夜がまだ明けきらぬうちにここ、中房温泉に車でやってきたのだった。そして、いきなりこの燕岳の人気ぶりに打ちのめされるのであった。
まずその車の多さにビックリし、心が折れそうになる。駐車スペースを求めてさまよいながら、何とか登山口からかなり離れた所にそれを見つけ、トボトボと歩く。これが既に登山の始まりであった。
同じようにさまよっていた人に聞くと、昨年からまたさらに車が増えているとのことで、「ここまで停められないのは、ちょっと想像を超えていた」とのことであった。
そして登山口に近づくにつれてどんどん人が多くなっていき、既にある程度の列ができている。スゴい。大人気だ。
登山口から、いきなり葛折りのなかなかの急登に入るのだが、そこも行列。ペースがゆっくりなので、急登も全く苦にならない。これではいつになったら山頂に着くか分からない(そんなことはないのだが(笑))と思った私は、少しずつ少しずつ、邪魔にならないように気を遣いながら追い越しを開始するのであった。
人の列が、途切れずにダラダラダラダラ連なっているので、「はいごめんなさい」「すみません」と言って追い越しをするとまたすぐ次の人の塊に追いつき、「はいすみません」と言ってまた追い越していく。この繰り返しを延々と連続で行っていくことになってしまう。
これもトレーニングだと思ってがんばる。またがんばる。いったいどのくらいの人を抜かすことになるだろうかとちょっと数えてみたら、30分で90人を追い越していた(笑)。山頂まで約2時間半(コースタイムは約4時間半)で、450人追い越した計算になった。
これがスゴいのかどうなのかはよく分からないが、とにかく山頂まで引きも切らないこの人の列そのものが驚嘆に値することは間違いない。とにかく大人気であった。
途中の休憩所の合戦小屋も大賑わい。下からプチスキーリフトのようなケーブルで吊り上げているスイカが名物のようで、ベンチに休憩中の人々の手に手に赤いスイカがあった。一切れ800円と高額であったために、次回のお楽しみとした(笑)。
そして、450人ほど追い越したなかなかのハイペースな私を、さらに上回るペースで追い越していった人たちがいた。3名。彼らは絶対にマラソンランナーであるはずだ。そして4時間、いや、3時間を切るツワモノであるはずだ。と、そう思って納得するしかないほど鮮やかに、完膚なきまでに私はスピードにおいて敗北を喫したのであった。上には上がいる。
山頂に続く尾根に出ると、そこに人気の燕山(えんざん)荘があった。その姿、カラーリングも燕岳を模しているかのようで美しい。40年近く前になるが、こんな素敵な山小屋に泊まることができた中学生は極上の幸せ者である。当時はある程度しかその幸せを噛みしめることができなかったが、今は分かる。成長したな、自分。
燕山荘から山頂までの約30分は、美しい山並みと美しく可憐なコマクサの群生に癒されながらゆっくりと進む。
新婚時代に妻とF士通のテニスクラブの仲間に入れてもらってテニスをしていた頃に最も仲良くしていただいたS久間ご夫妻のことが頭をよぎる。ご夫妻の妻の方が、自分のことを「S久間コマクサ、下から読んでもS久間コマクサ」と紹介していたことを思い出したのだった(笑)。
有名な「いるか岩」で記念撮影をしたら山頂はすぐそこである。花崗岩のサラサラとした感じから、沖縄の海を思い出す。夏の日差しがよく似合っている。
天気がよかったため、表銀座コースもクッキリとよく見えた。その先にある槍ヶ岳の勇姿ももちろん含めてである。「こんなところに、工藤夕貴のような山に魅せられた女性と一緒に来れたらどんなに素晴らしいだろう。」とは努めて思わないようにして、「ここに出不精の我が妻を連れてくるにはどういう口車を用意すればいいのだろうか(笑)。」と、そんなことを考えながら、また人の列の邪魔にならないようならないよう、気をつけながら下山するのであった。
最後に一つ。
人の列が尋常でないことのメリット。「あ! 」と、下山中に気がついた。それは、リュックや靴といった様々な登山アイテムの人気ぶりの調査が簡単にできるということであった。母数が多いので、かなり客観的に傾向が分かる。さながら選挙の出口調査のようである。
年配の方、若い子たちの好むメーカーの違いなどを嗅ぎ分ければ、メーカーごとの支持層や最近の傾向の移ろいまで分かるような気がする。
そして私は、英国の「カリマー」が好きになってしまう。デザインがスッとしてキュっとなっており(笑)、使っている人が皆、洗練されたスタイリッシュな出で立ちに見えてきてしまうのであった。まさに、女王。
数日後、私はたまらなくなってカリマーのリュックを買ってしまうのであった。

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いるか岩、燕山(えんざん)荘、燕岳山頂、そして尋常でない登山客の列

「毎日走った記録(紙)」への記録。

朝、仕事を始める前。私は出勤前のランニングや昨夜のランニング、時には週末のランニングを反芻しながら、その結果を心静かに赤ペンで書いていく。

このA4で白い上質紙の定位置は、職場のデスクの上である。この紙に私は、平成28(2016)年8月7日から始まった毎日のランニングの結果を記録しているのである。
 
毎日走るようになってから何となく書き始め、最初の頃はメモ程度だったものが、進化とレベルアップを繰り返し、いつの頃からかやめることができない強い依存性を持つアイテムに変貌を遂げていたのだった。もはや、連続ランがやめられないのか、この記録がやめられないのかわからなくなっている(笑)。
 
文字はかなり小さい。見た目よく、レベルが保たれるように気を配りながら、
①日付
②その日の走行距離の合計
③その月の累計走行距離
④その月の1日平均走行距離
⑤平成28(2016)年8月7日からの累計走行距離
⑥連続ランニングの日数
⑦連続ランニング中の1日平均走行距離
⑧備考
の各項目について、丁寧に丁寧に記入していく。誤記入や計算ミスがないよう、慎重に確認を重ねながらである。特に計算が苦手な私は、平均値を出す場合はもちろんのこと、単なる足し算においても、位が繰り上がる場合など、ほんのわずかでも簡単でない要素があるときは必ず電卓を使ってゆっくりと計算する(笑)。繰り返すが、計算ミスや誤記入は許されない。この、一度狂うとリカバリーが大変であるために一瞬たりとも気が抜けないのがアナログのいいところである。
ひと月に1枚。その月の最後の日の記入が終わると、その月のトータルをエクセルのセルにPCで書き込んでプリントアウト。手書き部分が真っさらになった新しい記入用紙が出来上がる。
月が変わるごとに違う紙に手書きの記録を続ける繰り返しで、今は32枚目となった紙に記録を行っている。
 
この記録が、実にいい。
 
数あるランニングアプリケーションもそれぞれ機能的で使いやすいとは思うが、この、いかにもアナログな、手書きを本分とするこの「毎日走った記録」への記入は、僧侶が写経をするかのような、苦労してまとめた起案文書の自分の名前の右端に印鑑を押すかのような、実に厳かな、何とも画竜点睛な気分にさせてくれるのである。皆さんにもぜひお試しいただきたい。
モチベーションが高まる要素や便利な機能も数多い。まず、月の1日平均走行距離を見ながら、月初め、中頃、最終週と、月の走行距離の目標を微調整する。そして、月の1日平均距離は、単純に30倍31倍すると、マラソン中継のゴール予想タイムのように、その月の最終的な走行距離の予測値が導き出せるので便利だ。
累計走行距離は、これまでの積み上げがそのままダイレクトに見える化されているので単純に嬉しい。
そして、最も気持ちを入れて書く「連続ランの日数」。これが最大のモチベーションであり、走る源泉である(笑)。
そして、割る。
累計の1日平均走行距離は、増えたり減ったりを繰り返しながら、わずかずつ、着実にその値を増やしていく。この、わずかずつ積み上がっていく感じが、自分の成長を表しているような気がして(実際には距離が伸びたからといって実力がついたとは一概には言えないとは思うのだが)本当に励みになる。
よしまたがんばろう!
と、記入後にそのようなファイティングな気持ちになるのはもちろん、走っている最中に記録する場面をイメージしながら、もっと、もっと、あと少し、よし今日はこのくらいで十分だろう、などといったストイックな気持ちになれるというメリットもある。
最後の備考欄には、達成した新記録や長い距離を走った場合の行き先、身体の好不調、病気やケガなど、後世に残しておきたい(笑)特筆すべき事項を記入する。振り返った時に参考になる(実はこのブログを書くに際しての資料(データ)集めにも一役買っているのである。)。
 
さてこの32枚の上質紙。私を依存症にした独特なモチベーション維持装置は、今の私にとって本当に大切な宝物の一つとなってしまった。これがなければ生きていけない(笑)。
この先どうなっていくのか。途絶えるのはランニングが先か、記録が先か。卵が先かニワトリが先か。神か狼か(回文)。
装置の性質上、それを知るのはカミのみなのである。

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これが「毎日走った記録(紙)」

ランニングコースいろいろ〜白樺湖畔「白樺ぐるりん」コース。

♫白樺〜リゾート〜池の平ホテル♫という長野県内では知らない人がいないテレビコマーシャルで有名な白樺湖
平成30(2018)年7月29日、蓼科(たてしな)山2,530mを下山した私は、汗で濡れたTシャツもそのままに、靴を履き替えて白樺湖畔を走ることにした。
 
登山した日も毎日走る。
 
本日のランは白樺湖で、というわけである。
1周どのくらいあるんだろう? と思いながら、真夏の炎天下、高原の気持ち良い風に助けられつつ走り始めるとすぐに、そこが赤いゴムチップが敷かれた専用のランニングコースであることに気がついた。気持ちいいのでそのままコースに沿ってしばらく走っていると、所々に「残り○○m」という看板が出ている。なるほど。
よく見ると、その○○mと書かれた表示の下の分母の位置に全長3,800mとの表記があった。クルリと1周は、思ったよりも小ぢんまりしたサイズであることがわかった。意外とお手軽だな白樺湖ちゃん。さて何周走ってやろうか(笑)。
その白樺湖がある長野県の蓼科高原。標高が1,000mを超えている(1,416m)ため、準高地トレーニングができる場所として位置づけられている。この白樺湖畔を1周するランニングコースは「白樺ぐるりん」という。管理する茅野市の市民公募で名付けられた。
全体的にアップダウンは少ないので、終始気持ち良く走ることができる。ケガもしにくそうである。
またここ白樺湖は、箱根駅伝でもその名を知られる各大学が陸上部の合宿を行っていることでも有名。2019年に初の総合優勝に輝いた東海大学を始め、山梨学院大学神奈川大学國學院大学桜美林大学専修大学といった大学が、ここ「白樺ぐるりん」を使って厳しい練習を積み重ねているのである。
ちなみに我が母校の駒澤大学は、標高657mの野尻湖畔で合宿を行っている。先日、大学専用宿泊施設「駒澤大学野尻寮」の管理人S塚さんとお会いする機会があり、S塚さんが私の父と仕事の付き合いのある人で、私のことを小さい頃から知っていてくださったということを知った。世の中は狭くできている。
白樺湖畔には、冒頭でCMソングを紹介した「池の平ホテル」や、遊園地「池の平ファミリーランド」、そして「世界の影絵・きり絵・ガラス・オルゴール美術館」や「蓼科テディベア美術館」などがあり、絵的に飽きない。まるでお花見団子のようである(3色のピンクは春、白は冬、緑は夏を表しており、秋がない)(笑)。
戦国時代、北信濃攻略を目指した武田軍の通り道だったこの辺り。国道152号線が通る大門峠を越えて、川中島の合戦に臨んでいたであろう武田信玄が休息したという御座岩の碑が、白樺湖の西側、ボート乗り場の脇に湖面に突き出すようなところにあって、走る際のポイントになる。
大門峠は白樺湖のすぐ北側。西に霧ヶ峰、東に蓼科山というところにあり、中央分水嶺となっている。峠の北側に降った雨は、千曲川(信濃川)を通って日本海へ、南側に降った雨は天竜川を通って太平洋に流れ込む。
車で走ってもこの辺りは上ったり下ったり、これでもかというほどいくつもの山を根気よく越えなければ上田や別所温泉諏訪湖の諏訪地方、北アルプスを背にした松本地方に出ることができない。今ほど道が整っていない時代に、よく迷わずに大量の軍勢や兵糧を進めていたなぁ、と感心することしきりである。
白樺湖をグルリと1周3.8kmを3周と少し、12kmを気持ち良く走り終え、車で帰路に就いた私。上田を通って長野市内を目指す予定であったが、黒曜石で有名な長和町の和田地区をちょっと通ってみようと道を逸れたばっかりに、和田峠を越えて諏訪湖方面、斜めに引き返して霧ヶ峰から勢いでそのまま山を下ってしまい、何と松本市内に出てしまったのであった(笑)。
日が落ちかけた夕暮れの中、松本から長野まで、国道19号をひたすら走るロングドライブは、蓼科山登山よりも、白樺湖畔のランニングよりも体力が奪われ、キツかった(笑)。
戦国時代であれば、完全に大将失格である。
信濃の国を、なめてはいけない。

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風が気持ち良く、とても走りやすかった白樺湖畔のランニングコース