なぜ私は毎日走っているのか。フルマラソン・サブ4(サブフォー)への道

50歳を過ぎた普通のサラリーマンが、ある出来事をきっかけに毎日走り続けるそのモチベーションの数々。

ランニングコースいろいろ〜長野市民病院コース

母が骨折したのは、平成30(2018)年の6月8日金曜日の午後4時ごろだった。

それを知ったのは、私が指導員として40年以上世話になっている地元の南堀神楽保存会の会長の奥さんからの電話でだった。何がどうなっているのか、今でこそ親しくお話しさせていただく間柄となったが、当時はお互いきちんと会話をしたことがなく、電話口での自己紹介から始まり(笑)、畑の脇道で倒れている母を見つけた第一発見者が、その南堀神楽保存会の会員でありかつ南堀区の区長だったことを伝えられるというかなり入り組んだ状況(笑)。神楽保存会の子供会に所属している父母会の方の手助けなどもいただきながら、母は、無事に救急車で運ばれ、実家から1.8kmのところにある長野市民病院の西病棟に入院したのであった。
畑から家に帰ろうとした母が転んで骨折したのは、骨盤と大腿骨を繋ぐ部分。そこにあるピンポン玉が、大腿骨からポキっと離れた大腿骨頸部骨折というものであった。
主治医は20代のK松幸子医師。彼女の執刀で翌日行われた人工骨橈という新しいピンポン玉に交換する手術が完璧に成功し、母は約2か月間のリハビリ生活に入ったのである。
この、長野市の最先端医療を担う総合病院が実家の近くにあるというのは本当にラッキーなことである。
毎日走る生活が既に3年目に入っていた私は、母の入院という一大アクシデントにも動じることなく、毎日走り続けた。なんのことはない、ランニングで毎日長野市民病院まで行ったり来たりしていたのである。着替えなどの必要品もランニングで届けた。片道1.8km。私にとってはチョチョイのチョイな距離である。
女性の看護師さんや警備員さんとも顔見知りに
なった。入口で血圧を測り、エレベータホール脇の談話スペースに設置してある給水器の水を飲む。長野市民病院の敷地を当たり前のように横切って登校する長野市立東北中学校の生徒たちと朝の挨拶を交わす。
もともとこの辺りは、私が長野市民病院コースと呼ぶ5kmのランニングコース。田んぼの中の直線道路を使って長野市民病院をグルッと回り、ちょうど5kmになるように設定してある。最もベーシックで、私が最も多く走っているコースである。辺りの景色は見慣れ過ぎるほど見慣れている。
そして、母の骨折の約1年前は、父がこの長野市民病院に入院していた。父は、入院26日目であの世に旅立った。
その時も私は毎日毎日、父の様子を見に、病院まで走って行ったり来たりを繰り返したのだった。
父との別れがいよいよ近づいた時、私は簡易ベッドで父の病室に宿泊する生活をした。それが最期の1週間。満足な親孝行ができなかった私にとって、父と同じ部屋で夜を過ごしたこの1週間は、かけがえのない時間だった。
霊柩車を見るたびに親指を中に入れて拳を握っていた甲斐があって(笑)、私は父を見送る瞬間に立ち会うことができた。母も一緒だった。もう走り終えて帰宅した時に「ご苦労さん!」と声をかけてはもらえないんだな、と考えた。
それでも私は毎日走る。
翌日のお通夜の朝も、その翌日の告別式の朝も、長野市民病院を横目で見ながら、走った。
妻が、この時以来、毎日走る私を応援してくれるようになった。
走ってさえいれば、悲しみに襲われることはなかった。空に向かって、父に、礼を言う日がしばらく続いた。

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父が旅立った平成29(2017)年4月30日の長野市民病院